考えること、考えさせることが大事で、考える力を身につけることを成長と言うのだ。だからノット・オーバーティーチング──「教えすぎないこと」が指導のポイントなのだが、研究熱心なお父さんはそこに気がつかないというわけである。

差し出したい杖を我慢することが愛

「馬は水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない」

とは、スポーツや勉強の指導法を語るときに用いられる言葉だ。かつて私もそう思っていた。結局、子どものヤル気に帰すというわけだ。

だが、いまは違う。馬を水辺に連れて行って飲ませようとするのではなく、

「馬が水を飲みたくなってから水辺に連れて行く」

と考えるのだ。

馬のノドが渇いていないのであれば、水辺につれて行くのではなく、野原を走らせる。ノドが渇くまで、水が欲しくなるまでひたすら走らせる。指導とは、こういうことを言うのではないだろうか。先を急がず、決して教えすぎず、時到るまで、指導者の辛抱と根気こそ大事というわけだ。

しつけも子育ても、それと同じだ。人生の先達としてのお父さんは、わが子可愛さで、いろんなことを教えたくなる。素直な子に育つように、みんなに可愛がられる子に育つように、勉強ができるように、そして健康で、自主性があって、親切で、やさしくて、道を踏み外さず、しかし芯の強い子になってほしいと、盛りだくさんの願いと期待がある。

だから、教えすぎる。「ありがとうを言いなさい」「悪いことをしたらあやまりなさい」という人間としての基本から始まって、「返事はハッキリ」「人には挨拶をしなさい」「ゲームは時間を決めて」「時間割りの用意は前夜」「予習復習は欠かさないこと」……。子どもは考える暇(いとま)すらない。それでいいのだろうか?

「考える」という訓練をさせることこそ、お父さんの役目だと思うのだ。「転ばぬ先の杖」は決して愛情ではない。転ぶときは転がせばよい。転んでヒザを擦りむくことで子どもは学習していく。

お父さんの愛情は杖を差し出すことでも、転んだわが子を抱え起こすことでもない。谷底へ落ちないように注意深く見守りながら、差し出したい杖をぐっと我慢する、その忍耐にあるのだ。

向谷 匡史(むかいだに・ただし)
作家、日本空手道「昇空館」館長
1950年、広島県呉市出身。拓殖大学卒業後、週刊誌記者などを経て作家に。浄土真宗本願寺派僧侶。保護司、日本空手道「昇空館」館長として、青少年の育成にあたる。著書に『考える力を育てる 子どもの「なぜ」の答え方』(左右社)、『浄土真宗ではなぜ「清めの塩」を出さないのか』(青春出版社)、『親鸞の言葉 明日を生きる勇気』(河出書房新社)、『角栄と進次郎 人たらしの遺伝子』(徳間書店)など多数。
(写真=iStock.com)
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