小学校の中・高学年ともなれば見学を希望する親もさすがにいないが、それでもたまにはいる。すると子どもは親の手前、いい子ぶって素の自分を隠してしまう。私は空手の稽古を通して、これからの人生に資する「何か」を個々人が見つけることを指導理念としているので、これでは空手を習う意味がない。体育館を使用する団体は、場所も広く開放的なこともあって親は自由に見学しているケースもあるが、私の道場はそんな理由から親の見学は断っている。
余談になるが、私の道場には道場訓といったものはない。なぜなら、空手を習わせる親御さんの動機も目的も十人十色であるからだ。精神的に強くしたいと願う親もいれば、健康のためと考える親もいる。各種大会で活躍させたいと将来に夢を描いている親もいる。親の思惑とは別に、子どもによって身体能力も違えば、目指すものも違う。
だから僧籍にもある私は、釈迦に倣(なら)って対機説法──相手に応じて最善と思われる方法で指導する。精神力を強くすることを目的とした子であればそちらに力を入れる。選手として活躍することを目指しているなら、技量を中心に指導する。そんなことから画一的な道場訓はあえてつくらず、前述のように、個々人が人生に資する何かをつかんでくれれば、それでいいと考えるのだ。
「教えすぎる」お父さんの罪
指導で留意するのは子どもたちとの“間合い”である。これを常に考えて接し、指導しているのだが、たまに熱心なお父さんがいて、自宅でわが子にアドバイスする。
「もっとステップを使わなければだめだ」
「蹴りを練習しろ」
「声を出せ」
空手雑誌やユーチューブで研究しているのだろう。「パパにこう言われたんだ」と得意になって私に話してくれるので、すぐにわかる。熱心なのはたいへん結構だが、こうしたお父さんは決定的な過ちを犯している。オーバーティーチング──教えすぎるのだ。
幼児であっても、壁を1つずつ越えることで上達していく。指導とは、子どもたちの前に大小さまざまな壁を設定し、それを自分の力で越えさせることにある。だから教えすぎない。教えてやりたいけど我慢する。
幼児であれば、「どうしたらパンチが早くなるかな」とテーマを与えてやり、自分で考えさせる。高学年であれば「フェイントから入れ!」と叱責する。
「どうやってフェイントかけていいかわかりません」
「考えろ!」
と突っぱね、自分で模索させる。
中学生以上になると、もっと突き放す。
「質問するときは自分で考え、答えを見つけ、“こう思うんですが、これでいいでしょうか”という訊き方をしろ」