そして孤独な哲学者たちは、王を倒し、神を葬った。

真理を追い求める西洋の哲人たちは積極的に孤独を愛した。そして、孤独のなかで社会の常識を覆す新しい思想を紡ぎだした。

知の格闘家ともいえる哲学者は孤独をいかにとらえていたのか。そしてその生き様とは? 哲学に造詣の深い日比野敦さんに話をうかがった。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/selimaksan)

「哲学者には孤独について多く語ったタイプと、たいして語らなかったタイプがいます。孤独について語らなかったタイプは、むしろ議論や対話について多く触れています。ソクラテスはずっと問答していますし、弟子のプラトンも同じタイプです。

で、対話(dialogue)から生まれたのが弁証法(dialectic)です。意見の異なる人と議論することで新しい何かが見つかる。いわゆるアウフヘーベン、「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」「合(ジンテーゼ)」ですね。だから、ヘーゲルにしてもマルクスにしても、弁証法的に考える人は孤独についてあまり語っていないとも言えます」(日比野さん、以下同)

弁証法を通じて人類は様々な問題を解決し、やがて真理に到達して究極の理想社会をつくる。議論を闘わせることこそが真理に到達する方法であると考えたのがヘーゲル。時代はまさにフランス革命直後、王制から民主制への転換期。明日はきっともっとよくなるというヘーゲル哲学は大流行。

ところが、いつ到達するかわからない真理なんて、今、悩んでいる人間には何の意味もないと批判する哲学者が登場した。キルケゴールである。

セーレン・キルケゴール(1813-55)
デンマークの哲学者。観念論を批判し、「単独者」「主体性」などの概念を中心に自己の純粋な生き方を追求し、思索を展開。のちの実存主義哲学に大きな影響を与える。

「『死に至る病』で単独者という概念を提示しています。ご存じのように、死に至る病とは『絶望』のことです」

ただ、この場合の絶望は普段、私たちが使っている絶望とは少し異なる。

「『人が文字通りこの病によって死ぬこと、言い換えれば、この病が肉体的な死で終わることは到底あり得ないだろう』。要するに死に至る病とは単に肉体が滅びることではない。苦しみながら、生きる希望があるわけでもないのに死ぬことすらできない状態」と日比野さんは続ける。

「絶望と嘆く人はまだ本当に絶望していないということはシェークスピアやドストエフスキーも言っていますが、人は『絶望した』と弱音を吐いても、やがて、周りを見回して、まあ、仕方がないかとあきらめ、世界を受け入れ、立ち直りますよね。