江戸時代は今とは違う意味で「生涯未婚」の人が多かった。雇われ商人が独立できたのは早くても30歳頃だが、江戸時代の平均寿命は30歳代。結婚したり子供を作ったりする前に、この世を去る人は少なくなかった。「死なずに生き抜くこと」が何よりも難しかったのだ――。

※本稿は、森田健司『江戸ぐらしの内側 快適で平和に生きる知恵』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

「長男以外の男性」は10歳で奉公に出た

江戸の庶民を代表するのは、「商・工」階級の人々である。賑やかな巨大都市に住んでいた彼らは、一体どのような人生を送ったのだろうか。これを、「呉服屋に勤める商人の男性」を例にして考えてみたい。

江戸時代の呉服屋は、大店を除き、そのほとんどが家族経営だった。店と住居が同じ建物で、家族が従業員も兼ねるという形式である。しかし、それだけでは、労働力の不足する場合が多い。そこで、家族以外の従業員も雇い入れるのだが、彼らの多くは経営者家族と起居を共にする奉公人だった。

奉公人の多くは、同じ商家だけではなく、近隣の地域の農家などの「長男以外の男性」である。長男は家督を継ぎ、商家や農家の主となる。しかし、次男以降は、そうもいかない。そこで、ツテを辿って、商家などに奉公に出るのである。奉公に出ず、そのまま実家に住み続けた場合は、結婚も許されず、居候のような立場で隠れるように暮らすしかなかった。

奉公に出る年齢は、多くの場合、10歳前後である。寺子屋で「読み書き算盤」を学び、それがおおむね身に付いた頃だろう。まだまだ甘えたい盛りの子供にも思えるが、この時期から家を出て、「丁稚(でっち)」と呼ばれる住み込みの従業員となった。

脱落しても実家に居場所はない

丁稚である彼らに、いわゆる給料は出ない。寝食の保障が、給金代わりである。そもそも、丁稚はほとんど労働力として機能せず、研修を受けている段階である。できる仕事といえば、掃除や力仕事などの雑用に限られていた。こう考えれば、お金をもらえる方が不思議だろう。

ただし、盆と正月には、主に現物支給で「ボーナス」が出た。これは「仕着せ(しきせ)」と呼ばれた。現在も「上から一方的に与えられるもの」という意味の、「お仕着せ」という言葉が残っているが、由来はこの仕着せである。

容易に想像できるように、この丁稚の段階で脱落する子供たちも、たくさんいた。基本的に休みもなく、ひたすら見習いの仕事ばかりの日々は、10代前半の子たちには辛かったに違いない。しかし、多くの子たちには、実家に帰っても居場所はない。辞めて帰っても、違う奉公先を探して、また一からやり直しになるだけだった。

丁稚として真面目に勤めた者は、早ければ17~18歳ぐらいで元服を許され、「手代」に昇進する。この手代から、正式な従業員であり、立派な労働力となった。ただし、住み込みで働くという点においては、丁稚と同じである。

明治初期に撮影された呉服屋の様子(画像=『江戸暮らしの内側 快適で平和に生きる知恵』)

上に掲載した古写真は、明治時代初期の呉服屋を写したものである。江戸時代のそれと、ほぼ同じといってよいだろう。中央にいて、客の女性の顔色を窺っている男性が、この店の手代である。まだ随分若いように見える。