子どもよりも「キレる老人」が問題

年配層の「暴走」は何もネットのなかだけの話だけではない。近年さかんに指摘されているのは「キレる老人」の問題だ。

公共の場で非常に高圧的な態度を取ったり、自己中心の権利主張が強かったりするのは若者よりむしろ高齢者のほうであるという指摘が、多くの日本人に共感を呼ぶという現実がある。もちろんこれは、少子化と高齢化が進むなかで高齢者の人口比が多くなっていることも無関係ではないだろうが。

一方、子どもはどうだろうか。

私自身、80年代から90年代にかけてよく見かけた、電車に乗ってくる子どもの集団が傍若無人に大騒ぎする状況に、最近はまったく遭遇しない。電車に社会見学や部活動での移動のため大勢の子どもが乗り込んできても、不愉快な思いをする経験を、久しくしていない。少しでも騒ぎそうな気配があると、別の子が「やめようよ」と注意する光景も、しばしば目にする。

それがどうしてなのか、はっきりと確信をもって言えるわけではないが、おそらく子どもたちのなかで、昔と比べ「電車のなかにいる知らない人たちも、学校の先生や親と同じ、尊敬する面もある大人なんだ」という意識が浸透してきたということは言えると思う。子どもたちが、学校と家だけで生活し、大人といえば親と先生くらいとしか交流がなかった頃は、電車に乗っている大人たちがそれぞれ日々働き、生きているという実感はなかっただろう。大人たちを存在感のある「人」として見ていなかった。だから傍若「無人」にふるまっていたのではないか。

道徳教育が必要なのは「大人」かもしれない

全国の小中学校に体験的な学習を重視した「総合的な学習の時間」が全面導入されたのは小学校が2002年、中学校が03年だったが、そこでは職場体験をしたり、さまざまな大人の仕事の話を聞いたり、高齢者施設で老人たちに会ったりする。私はそうした体験が、子どもたちの意識の変化と無関係ではないと考えている。世の中のすべての大人が、一人ひとり自分の人生を生きているのを、目の当たりにしているのだから。

かつて「ゆとり教育」を面白おかしく批判するテレビ番組に引っ張り出されて、他のすべての出演者から口汚い批判を浴びたとき、唯一、評価してくれたのは皇室の歴史に詳しい学者で「国民の道義を高揚し日本文化を向上させるために、真摯で自由な学問的研究を行うこと」を目的とする団体「藝林会」顧問である所功京都産業大学名誉教授だった。

所名誉教授は「ゆとり教育」で良くなった点として子どもの道徳意識を挙げ、「総合的な学習の時間」の成果だろうと発言してくれた。番組放映時にはカットされていたが、うれしい評価だった。

戦後、経済成長に追われ未成熟だった日本社会において「粗暴な子ども」「荒れる中学生」が問題になった。やがて彼らが大人になり、そのまま「暴走老人」「ネット右翼」になっているとしたら、いま道徳教育が必要なのは、子どもたちよりむしろ大人であるということになりかねない。

「勉強はできるけど心はよくない」子どもだった私自身、50歳、60歳になってようやくまっとうな人間になってきた気がする。50歳前後の10年間、亡くなるまでの河合隼雄先生を、そして60歳前後の10年間、これまた亡くなるまでの西部邁先生を「人生の師」と仰ぐなかで、いかに生きるべきかをみっちり学ぶことができたからだ。