※本稿は、寺脇研『危ない「道徳教科書」』(宝島社)の一部を再構成したものです。
勉強ができても自己肯定感はナシ
読書や映画に耽溺して劣等生になった中学高校時代とは違い、私は小学校のとき、勉強がよくできたほうだったと思う。テストがあれば満点を取るのもしばしばで、図工、音楽、体育、家庭を除いた教科ではクラスのなかでいつも1番の成績をおさめていた。
しかし、そんな自分に対しどれだけ自己肯定感があったかというと、実はほとんどないに等しかった。年の近い私の従兄弟は、心根が優しいと評判で、祖父母にいつも「お前は心がいいから」と褒められていた。それを脇で聞くたびに、少年だった私は「お前は勉強はできるけれども心はよくないね」と言われているような気がして、落ち込んだものである。実際、私は嘘をついたりズルい行いをする子どもだったし、それを自覚もしていた。
つまり、勉強ができても肝心なのは心だから、それが良くなければたとえどんなにテストの点が良くても、心が美しい子どもより劣っている――当時の私は密かにそう感じていたのである。
社会や家庭で培われた規範意識
それは決して「勉強ができる」のを無条件に称揚する装置である学校で教えられたものではなく、社会や家庭のなかで培われたひとつの規範意識だった。昭和30年代半ばまでは、4年制大学への進学率はまだ10%にも満たない時代で、「勉強ができる人間がすごい」という尺度がまかり通るのはせいぜい、まだ少数派だったサラリーマン世帯と学校の同級生の間くらいだった。
その後、高度経済成長とともに受験戦争が本格化し、進学率も急上昇して高学歴であることの価値は飛躍的に高まっていくが、人格形成期に「勉強ができる」ということを過大評価されてこなかった世代である私は、子どもの頃、いつも心のどこかに「たとえ勉強ができたとしても」という気持ちを持っていたように思う。このことは、現在の私の道徳に対する考え方に少なからぬ影響をもっているかもしれない。