「江戸下町の風物詩」という三社祭イメージが本格的に形成されるのは、戦後になってからだ。1958年、「三社権現船祭」という神事が行われる。本来、三社祭は観音像を川から拾い上げたことを記念するもので、神輿は船に乗せて渡御(とぎょ)するのが江戸時代までのやり方だった。だが資金難などで中絶しており、この年、100年ぶりに行われたのだ。
三社権現船祭の復活は、三社祭という伝統を再構築しようとする動きとして理解できる。そして、その伝統的なイメージに引かれるように集まる人も増加する。1963年の壬生台瞬・大正大学教授による寄稿は、この時期の浅草の雰囲気をよく伝えている(読売新聞1963年8月24日)。
当時の浅草は「斜陽浅草」と言われてはいたが、壬生の調査によれば、実のところ来訪者数は減っていなかった。それどころか、年間3000万人もの人が訪れており、とげぬき地蔵の1000万人、明治神宮の800万人と比べても破格だ。それなのになぜ浅草は「斜陽」と語られてしまうのか、と壬生は問いかける。
そして、全国一の参拝者数を誇る浅草寺の観光寺院化に警鐘を鳴らす。浅草の中心である観音様には「目に耳に、鼻にも口にも強烈な宗教的情緒が必要」であり、「生きた信仰寺院」としての性格を取り戻さなければならず、そうすることで逆に観光寺院としての魅力も高まるとし、「地元民もよき浅草カラーを育てていくことに努力」すべきだという。
観光客増加で交通問題が深刻化
続いて壬生は、交通問題を取り上げる。浅草への国電駅の誘致はもはや不可能だから、大規模バスターミナルを作るべきだという。さらに隅田川の水上バスを拡充し、浅草寺の地下に駐車場を新設することを提案している。寄稿は「車を制するものは事業を制し、人を制する時代になっている」と締められている。モータリゼーション時代の中で、信仰と観光の双方に目配りした的確な提言だろう。
実際、観光客の増加にともない、浅草の交通問題は深刻になっていた。1969年には三社祭の際の路上駐車問題が報じられ、浅草出身で千代田区平河町の会社社長の談話が掲載されている。この社長は家族6人で車で三社祭に出かけたが、どうしても駐車場が見つからず、隅田公園のわきに路上駐車した。だが戻ってみると駐車違反の紙が貼られており、その場でほかのドライバーとともに警官に抗議したが、ダメだった。「大々的に祭りのPRをしておきながら駐車場の用意もない。昔の下町はこうじゃなかった。人には行き届いた親切を……と心がけていたものです」という旨を語っている。