1970年代に入ると、三社祭の観客は飛躍的に増加する。1970年は20万人にすぎなかったのが、1971年は30万人、1972年には37万人と急増した。1973年には40万人を突破し、戦後初めて浅草通りが神輿に解放される。この頃から担ぎ手不足も解消された。これはほかの神社も同様で、隅田川対岸の白髭(しらひげ)神社では担ぎ手不足で中断していた神輿が1974年に復活し、下谷神社でも、1937年以来戦争や担ぎ手不足でお蔵入りしていた巨大神輿が1975年に復活した。
1975年の三社祭には80万人以上が押しかけ、1978年はとうとう一桁増えて190万人の人出があった。この年は観音示顕1350周年にも当たり、秋の大開帳の際には1カ月で800万人が浅草を訪れたという。隅田川花火大会や早慶レガッタも、この年に復活。1970年代中頃に、「江戸下町」「伝統の町」といった浅草イメージが一気に再構築されたのだ。
「江戸三大祭り」論争が勃発したのもこの頃だ。山車や神輿が江戸城内に入ることを許された天下祭りゆえに、神田明神と赤坂日枝神社の2つは確定している。江戸時代には、残るひとつは深川八幡とされていた。だが、1970年代になると、三社祭が三大祭りのひとつに数えられるようになる。「川向こう」という深川の不利な立地もあり、地元浅草の人によれば、商店街の活性化のために「横取り」したというのだ。
新入社員研修で神輿を担がされる
1979年にはついに観客は200万人を突破。この頃には、地元のデパートが新入社員教育として、女子15人を含む26名を三社祭に担ぎ手として参加させている。当時の読売新聞の記事では「Mデパート」となっているが、どう考えても松屋だ。「商売をするには地元や地域と交流を深める必要があり、それには祭で一緒に声を出すのが良い」という考えに基づいてのものだが、今なら「業務外だ」とそこそこ炎上するだろう。なお、翌年の新入社員50名にもアンケートをとったところ、半数以上が「担ぎたい」と答えたという。
三社祭の伝統化は加速する。1981年、「宮出し」が浅草神社から直接行われるようになる。三社祭では、まず各町内の100基余りの神輿が渡御し、その後、浅草神社にある3基の本神輿が渡御する。従来、この3基の神輿を出す際、境内が狭く担ぎ手が殺到して事故が起こる可能性があるため、いったん台車に乗せて境内裏の広場まで移動し、そこから担ぐ方式だった。だがこの年、各町会の代表者から「多少危険であっても伝統ルートを復活させてほしい」という申し入れがあり、担がれて宮出しされた。翌年には、285万人という空前の観客数を記録している。