エッセイをどう定義するかについては難しいところがありますが、僕は「生き方を考える本である」と思っています。
簡単にいえば、身の回りのことを著者が書いているうちに、それが文学的な高みに至り、読者は知らないうちにその著者の体験や空想と同じような境地に引き込まれていって、何かを感じたり、新しいことを考えついたりする。こんな作用がある文章のことを指すのだと思います。
ビジネスマンは実利を求めて本を読みがちですが、明日からすぐに役に立つという本は、3年経つとたいてい役に立たなくなるものです。もちろん、ビジネス書やハウツー本も読まなければ飯の種がなくなってしまうこともあります。しかし、たとえばリーダーがハウツー本に書かれてある通りに「わが社はかくあるべきだ」と話したら、たちまち部下はしらけてしまう。
自分の理想をしっかりと持たなければ、誰もついてはきません。理想をもとに自身の思いを語るには、いろいろなジャンルの本を読むべきだと思います。ビジネス書もエッセイも小説もすべて、僕は並行して読んできました。
僕が本を好きになったのは、大正時代の文学青年として育った父の影響です。父はよほど本が大事だったようで、僕は戦争中、父の本と一緒に疎開したのです。小児喘息だったので学校へ行くわけでもなく、近所に友だちもいなかったので、ありとあらゆる本を読みました。といっても本は全部大人向けで、ルビのないものばかり。1回ではわからないものも、暇にまかせて懲りずに3回も4回も読んでいました。すると、ルビがない字もだんだん読めるようになり、字引を引かなくてもなんとなく内容を理解できるようになったものです。
戦争が終わって東京に戻ると、内田百間の本が再び出版されるようになりました。百間が好きだった父は、新刊が出るたび会社の帰りに虎ノ門書房で買ってきました。その影響もあって僕も好きになった。まず「なんて文章の上手い人だ」と感動した記憶があります。足元にも及ばないけれど、僕が書く文章は、百間の文章を多少意識している部分はあります。そして何より情景描写が優れている。主題もないままに書き綴っているのに、読んでいるこちらはその状況の中へ引きずり込まれてしまうのです。
とくに『百鬼園随筆』にある借金の話が秀逸です。百間はご承知のように浪費家ですから、次々と前借りしてはまた使ってしまう。ところがとうとう催促がきて、指定の場所に行くと怖い人たちに囲まれてしまいます。そういう文章を読んでいくと、こちら側も本当に怖くなってしまうのです。それも、よけいな言葉や形容詞をあまり使わない。その見事な書き方にすっかり惚れ込んでしまったわけです。