なにげない出来事も
團伊玖磨の手にかかれば極上の読み物になる
この人は本当に本が好きなんだなと感じさせるのが、白水社の編集者だった鶴ヶ谷真一さんの『書を読んで羊を失う』です。そもそもこの本に惹かれたのは、僕が大好きなファン・フーリックの推理小説シリーズが取り上げられていたからです。
そのほかにも、洋の東西で本のめくり方が違うという発見から始まり、本のレイアウトや柱の立て方といった話題に広がっていく話や、古書店で手にした和本に挟まっていた枯葉を見つけては本が転々と人の手を渡っていくさまを想う話など、どの編をとっても著者の目配りや心配りが行き届いていて、引き込まれてしまいます。本にまつわる話を起点にさまざまな世界を見せてくれて、飽きさせません。
寺田寅彦は科学者でありながら、すばらしい随筆を残しました。『寺田寅彦随筆集』には、金平糖はどうしてああいう形になるのか、混雑した電車に乗らないためにはどうするべきかなど、説明するまでもないほど有名な話がたくさん収められています。
たとえば「混んだ電車に乗りたくないと思ったら、すいた電車が来るまで待ったらいい」とそれだけのことですが、そこに深い意味がある。科学的な事象と人生のこと、場合によっては宇宙のこともすべてが、一つの短編の中に見事に収まるところに感銘を受けています。
ルネサンスとそれ以降の近代は、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、あらゆることに精通していることを人間の理想としました。ところが、科学が発達するにつれて、領域を定めてより専門化していきます。しかし、ひとつの狭い領域だけでは満足できず、近代になると専門外の活動をする人たちが現れる。
森林太郎は鴎外の筆名で文学作品を残し、医学博士の太田正雄は木下杢太郎のペンネームで随筆や水彩画を残しました。大脳生理学者の林髞(たかし)も、木々高太郎の名前で小説を書いています。現代においては、音響の学者でもあり、「ケチャ」というバリの舞踏劇を日本で初めて演じた芸能山城組を主宰する大橋力さんがいます。
おそらく彼らの場合、多面的に活動することが、それぞれにプラスの効果をもたらしているのでしょう。寺田寅彦の本は中学の頃に初めて読んだのですが、その興味の及ぶ範囲の広さと深さ、感覚の鋭さは類まれなる例だと驚き、フィールドワークの重要さを教えられたと思っています。
音楽家という肩書を持ちながら、卓越した文章を書かれた團伊玖磨さんの『パイプのけむり』も、ずっと楽しみに読んでいました。これは雑誌「アサヒグラフ」に何十年もお続けになった連載をまとめたものですが、「よくもこんなに書くことがあるものだ」と感心してしまいます。生活の中での発見や、仕事のこと、旅行先でのできごとといったことから始まり、世界が膨らんでいく。なおかつどの章もとても完成度が高く、たいへんすばらしいエッセイだと思います。
映画やジャズに詳しい植草甚一さんのエッセイも大好きで、新刊が出るたびに買っていました。
なかでも『ぼくのニューヨーク案内』は、ニューヨークに行かずして、この通りのこの本屋にこの本がある、などと書いたものです。そして60代で初めてニューヨークに行ってみると、書いた通りに本屋があり、そこで手当たり次第に本を買った、と展開されていく。その構成がすばらしく、まるで自分が体験したことのように話に引き込まれてしまうのです。