日本における混乱

この種の見方をよくまとめたものとしては、渋谷望『魂の労働』(2003)、酒井隆史『自由論』(2001)など、雑誌『現代思想』を中心に活躍した論客たちの著書がある。彼らのおかげもあって日本でも「新自由主義」をめぐる議論が知られるようになるのだが、その後の思想的な議論は、やや袋小路に陥った印象が否めない。先に挙げた高原や、僕の『サブカル・ニッポンの新自由主義』(2008)のように、「自由」と「安定」をジレンマ的理念と捉え、「ネオリベ(新自由主義)に妥協し、安定を脅かす第三の道はけしからん!」と批判するなら、「じゃあ安定のためには国家が個人の生活に介入すべきだということですか」という話になる。他方で、いわゆる「ロスジェネ論争」の論点の一部がそうであったように、「自由な働き方」を推奨することが、「自分で選んだのだから困ったときにも社会が助ける義理はありません」という見放しへとつながったのも確かだ。

「不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~」33ページ

そうやって思想的、理念的な議論が拡散する一方、社会的には労働の規制緩和が進み、非正規雇用の範囲が拡大し、しかも経済成長の度合いは諸外国と比べて非常に小さいという「失われた数十年」の時代になる。生活が苦しくなる人々が増えたという実感が広がり、反貧困の社会運動へと注目が集まり、民主党への政権交代につながるも、政権運営の度重なる混乱と失態で政策転換が進まず、今に至るまで根本的な解決には至っていない。

さらに事態を複雑にしているのは、いよいよ日本においても「産業構造の変化を前提にした社会の変化」「社会の変化を前提にした働き方の変化」を本格的に進めようという機運が高まっていることだ。少し考えれば分かることだが、サービス業が社会の中心になるということは、人が休みのときに働く人が増えるということだ。それなのに産業のシステム、教育のシステムが「平日の昼間勤務もしくは専業主婦」の存在を前提に成り立っていると、あらゆることのしわ寄せが働く人に向かう。宅配サービスの再配達やPTAの会議など、ネットでたまにやり玉に挙がる諸々を含め、いざ気づいてみると「いまの生活スタイルとは考え方からそぐわない」ものが、社会の中で無数に維持されている。

働かなくても生きていけるか

社会学的にはこうした齟齬は、すべての生活の基盤を「会社と家族」に依存する前提で構築した結果生じたものだと考えられる。このあたりのシステム的な解説は本田由紀『もじれる社会』(2014)に詳しいけれど、要するに、会社の正社員になり、そこで得た給料で買えるものが生活の支えになるという「生活圏の商品化」の状態を変えないまま雇用や家族のあり方が変化すると、そこからこぼれる人が、オルタナティブな手段もないまま、社会的に安全な状態から放り出されてしまうことになるのだ。

ただ問題は、その「社会的に安全な状態」が、どのようなものであるのかについての合意が揺らいでいることだろう。たとえばエスピン=アンデルセンの「福祉レジーム論」における「労働力の脱商品化」という概念を使って考えてみよう。「脱商品化」という言葉が示すのは、お金を払わなくても福祉が得られる、安全な生活を送ることができるという意味だ。だから、「労働力が脱商品化されている」というのは、「働かなくても・働けなくても生きていける度合いが高い」ということになる。それを支えるのは、国家による保障、民間の保険、企業年金、家族の相互扶助といったものだ。日本の場合は国家による保障が手薄で、高度成長期に田舎を出てきた人が多かったため、高齢になって退職した後の生活保障は、もっぱら企業年金と民間のサービスによって担われてきた。

ということは、企業に依存できないことで「社会的に安全な状態」から遠ざけられるリスクが高まるということになる。だが、「安全な状態」を維持するためには、従来型の企業福祉以外にも、「家族が面倒を見るという原則を強化する」とか「早いうちから投資信託などによる資産形成を促す」、「国が基礎所得を保証する」などの選択肢がある。これからの日本におけるセカンドライフの「安全」を守るためにはどのような手段が必要なのか、議論が収束しているとはいえない。

似たようなことは、病気などで働けなくなった人が、あるいは結婚せずに高齢者になった人が、どのように「安全」に暮らせるようになるのがよいか、と考えることもできる。社会学者は、少なくとも現代のシステムが、より「商品化」されたもの、つまり、お金を持っていれば家事サービスや介護サービスを購入することができるが、そうでなければ収入を切り下げてでも血縁者で負担するか、QOLの低い状態で生活するしかない状況になっていることに、批判的な考え方を持っている場合が多い。