神経幹細胞を脳に移植し、脳神経を再生する

【田原】その結果、慶應義塾大学医学部の岡野栄之先生にお会いになる。岡野さんはどのような研究を?

田原総一朗
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【森】人間の脳の中には、いろいろな神経の種である神経幹細胞があります。岡野先生は、神経幹細胞を世界で初めて単離、つまり見つけて増やすことに成功した先生です。当時は、神経幹細胞を脳に移植をして、脳神経を再生する研究をやっていらっしゃった。私たちがうかがったときは、サルでの実験を見せていただきました。映画『スーパーマン』に主演していた俳優が落馬して脊髄損傷になって動けなくなったことがありますよね。その病気を動物モデルに移植して、さらに神経幹細胞を移植したところ、動けなかったサルがもう一度動けるようになった。そのビデオを見て、自分たちが探していたのはこれだと。

【田原】その技術で、どういう薬ができるのですか。

【森】脳の中に神経幹細胞を移植することで、パーキンソン病を治したり、あるいは脳梗塞の患者さんがもう一度歩けたり話せるようになる可能性があります。ただ、治療ができるだけでは足りません。私たちがこだわっていたのは、大量生産してたくさんの患者を助けること。神経幹細胞は種の細胞なので、増やすことが可能です。もちろん簡単には増やせませんが、岡野先生の技術で開発する薬は量産化が可能という点が魅力でした。

【田原】そんなにすごい技術なのに、岡野先生はよく森さんたちの話に乗りましたね。

【森】先生の技術は最先端だけど、このまま日本でやるだけでは製品化が難しい、早く患者に届けるならアメリカでやるべきだと説きました。当時私たちは素人でしたが、何としても薬にしたいという真剣さが伝わったのか、岡野先生も私たちに懸けてくださったようです。

5年で製品化できると思っていた

【田原】事業をやるなら資金調達が必要です。とくに医薬は開発に時間がかかるから、その間の運転資金が要りますね。森さんは開発までどれくらい時間がかかると踏んでいたのですか。

【森】製品化そのものは時間がかかっても、3~5年で目処が立つと考えていました。それは甘い考えだと後で思い知りますが、まずは開発を3~5年続けられる資金を集めることにしました。ただ、簡単には集まりませんでした。クレイジーといわれる事業ほど集めるのは難しいと覚悟していたのですが、想像以上に厳しくて。資金調達に1年以上かかりました。最初に調達できたのは約3億円。この額でも1年半~2年で消えてしまうので、まだ足りない状況でした。

【田原】資金を集めたのはアメリカですか。それとも日本?

【森】チームはアメリカですが、資金調達は日本です。さまざまなベンチャーキャピタルに出向いて、足で稼いだというところです。

【田原】森さんたちは何も実績がなかった。どうやって資金を引き出したのですか。

【森】この業界で信用されている方と組めたことが大きかったです。

【田原】たとえば?

【森】元NIH(アメリカ国立衛生研究所)所長のジョージ・R・マーティンさんは大恩人の一人です。彼は「Mention my name、俺の名前を言えばわかるように話をつけておくよ」といって、さまざまな人を紹介してくれました。たとえば再生医療の先駆者で、私たちより約20年早く当局から許可を取って臨床実験をしていたゲイリー・スネーブルさんも、マーティンさんの紹介でした。スネーブルさんは「1にプロダクション、2にプロダクション、3にプロダクション」が口癖。再生医療はそのくらい製造が難しくて重要だということを教えてもらいました。

【田原】ほかには?

【森】再生医療で量産化に成功した製品がアメリカで承認されたケースが一例だけあるのですが、それをやったダミアン・ベイツさんとか、シリコンバレーの顔的な弁護士であるマリオ・ロザッティさんと出会えたことも大きかった。こうした大物たちの協力があって何とか資金調達できました。

【田原】過去のインタビューを拝見すると、川西さんと2人だから苦しい時期でも頑張れたとおっしゃっている。これはどういうことですか。

【森】私たちは営業と技術というような役割分担をしていなくて、ぜんぶ2人で決めています。壁にぶち当たることは多々ありますが、その都度お互いに納得するまで話し合うので、前に進めるのです。さらにいうと、これは2人だけの問題でもありません。大きな事業は、たくさんの人の協力が必要不可欠です。協力してくださる方々と話し合って一つの方向に向かって進んでいくことが、事業の醍醐味だと思っています。