勝部にはユニクロがインターネットのコミュニケーションでグローバルに成功する確信があった。社長に提出したのはわずかA4 2枚の企画書であったが、渾身の思いを込めた。

「後で聞くことができたのだが、社長は内容どうこうというよりも私の情熱を読み取ったからOKを出した、と言ってくれた」

ユニクロの柳井社長は自他共に認めるトップダウン式の経営者である。自著『一勝九敗』には、社員研修の際に、経営コンサルタントの講師の「社員一人ひとりが考えて実行するほうが大事だ、上司に言われることをやるだけではダメ」という発言に「それは違うでしょう」と食ってかかり、ボトムアップでは生き残れないことを強調している。

勝部はどうやってこの柳井を納得させるだけの実績と情熱を持つにいたったのだろうか。

世界一の広告賞に輝いた勝部の歩んだ道のりは決して平坦ではなかった。慶応大学卒業後、入社した日本長期信用銀行がその年破綻。個人の才覚などまったく問題にならないような大きな濁流に呑み込まれた。

ところが勝部は「折角一度入った会社なので、会社を立て直すためにマーケティングの勉強をしよう。そのために一度外に出よう」と逆に奮い立つ。翌年、メルセデスベンツ日本の門を叩き、マーケティング担当者としての修業を積む道を選んだ。

2年後、若き勝部の目標を達成する機会が早々に訪れた。生まれ変わった長期信用銀行、つまり現新生銀行に戻る機会を得たのである。しかし、「今こそ、銀行業界に新しいマーケティングを!」と意気揚々と再入社した勝部を待っていたのは名古屋支店での外回りの営業であった。顧客営業のために岐阜の山奥で車を運転する日々、倒産を経ても何も変わらない現実を突きつけられた。

「こんなつもりで帰ってきたのではない」、勝部の苦悶は続いた。持ち前の粘り強さを生かして、配置転換の希望を出し続け、あらゆる機会を通じてアピールした。その結果、勝部の願いは半年後の人事異動で聞き届けられることになる。