社会のために何がしかの役に立つ人たらん
「OEOBを眺めながら、私はしばしば秋山真之に思いを寄せた。自分の個人としての目標と、帰属する組織=海軍の目標と、国家の目標が一気通貫のようにぴたりとつながっていた時代を羨望しながら、さすがに『自分が一日怠ければ……』とまでは思わないまでも、私もまた、社会のために何がしかの役に立つ人たらんと、自らを奮い立たせていた」
この本の著者である寺島実郎氏が三井物産のワシントン事務所長として米大統領府ビルを見つめていたときの述懐だ。自身を日露戦争時の日本海海戦の名参謀に擬したのは、国際商戦の最前線を任された気負いだったかもしれない。着任する前年の1990年にはイラク軍がクウェートに侵攻。そこに端を発した湾岸危機は、日本のエネルギー戦略を揺さぶっていたのである。
当時、日本は輸入原油のほとんどを中東に依存していた。総合商社にしてみれば、中東での資源ビジネスの巧拙が同業他社との差別化につながるといっても過言ではなかったはずだ。三井物産が70~89年代にかけて総力を挙げて取り組んだ「イラン・ジャパン石油化学(IJPC)」も、そうした戦略に基づく一大プロジェクトだった。しかし、7600億円という巨額の投資をしたにもかかわらず、イラン革命とそれに続くイラン・イラク戦争によって破綻してしまう。
こうした状況下で、寺島氏が中東と関わりを持つようになったのは81年のことである。日本にとってはブラックボックスのような存在であったイランについての情報を探るためにワシントンに飛んだのが最初の米国勤務だったという。やがて、寺島氏のフィールドワークは中東だけでなく欧州にもおよぶ。そして、再度の渡米がワシントンで指揮を執ることだった。