数々の修羅場をくぐり抜けてきた名経営者たち。自らの生き様を語った言葉から、これからの人生の指針を打ち立てるヒントを得る。

まずはやってみろ。やればできる

本田技研工業といえば、日本を代表する自動車メーカーの一つ。その本田技研を一代にして小さな町工場から「世界のホンダ」にまで育て上げたのが、創業者の本田宗一郎だ。

その本田に新人のときから叱られ続け、直接薫陶を受けたのが元常務の岩倉信弥である。多摩美術大学で工業デザインを専攻、「自動車のデザインをしたい」と考えて、1964年に本田技研に入社した。東京オリンピックが開催された年だった。

「著書を何冊も読んで、本田さんに興味を持っていた。当時、オートバイメーカーだったが、自動車の生産も始めると聞き、自分から“押しかけ入社”した。まだ社員数3000人程度の会社で知名度も低く、親戚じゅうから反対された」と岩倉はいう。

2カ月ほどの新人研修を経て、希望どおり技術研究所に配属された岩倉は、早くも本田から強烈な洗礼を受ける。

「本田さんはモノづくりが心底好きで、技術研究所にも入り浸り。ある日、私がいる造形室にいきなり入ってきて、私がデザインしていたバイクを見て、『こりゃ、なんじゃ!』と怒鳴った。それが本田さんとの初対面でした。それからというもの、1日に何回も叱られたことがある」

本田は、社内では「カミナリ親父」と呼ばれていた。せっかちな性格で、口より先に手が出ることも多く、岩倉は、気に入らなかった試作品のヒンジ(車体用の蝶番)を、投げつけられたこともあった。

「でも愛嬌のある人で、どこか憎めない。私は早くに父を亡くしていたんですが、本田さんはちょうど父と同年代だったせいか、本当の親父のような存在だった。褒めてくれることは滅多になかったんですが、褒めるときはとことん褒める。すると、またがんばってみようと、こちらもつい思ってしまう」

本田の実践主義は徹底していた。「生産現場での経験に裏打ちされた人生哲学だったのではないか」と岩倉は見ている。

「本田さんは、不可能としか思えないような要求を平気でしてくる。『(実現は)難しそうです』といっても、『やってもせんに!とべ!(やってもいないくせに、すぐ行け)』といって聞かない。もう、やるしかない。そこで、無我夢中でやると、意外にも壁を乗り越えられてしまう」