頭でっかちにならずまずはやってみろ
岩倉は本田に「大学を出ている君が、中学しか出ていない私にこんなことをいわれて、おかしいと思わんのか!」と、一喝されたこともあった。それを聞いた河島喜好(後の社長)は、「実はな、本田さんは中学校じゃなく、小学校しか出てないんだよ」といって笑い、岩倉を慰めたという。一種のジョークでもあったようだ。
「私のように大学で知識を身につけた社員は、どうしても既成概念で物事を見て、本田さんのいい分を不可能だろうと推論してしまう。しかし、本田さんにとって、そんなのは“机上の空論”にすぎない。『頭でっかちにならず、まずはやってみろ。勉強してきたんだから、やればできるはずだ』と、発破をかけたかったのだと思う」
また、岩倉は本田流の実践が見事な成果を挙げた例を教えてくれた。
岩倉がまだ20代で、「H1300」というセダンをデザインしたときのこと。H1300を生産している鈴鹿工場(三重県)から、本田が呼んでいると連絡が入った。駆けつけるやいなや、「君は人殺しか!」と怒鳴られた。わけを尋ねてみると、ボディを溶接する工程で、ハンダを削る作業に手間取っていたのが発端だった。生産効率が落ちるうえに、ハンダは鉛と錫の合金だから、「このままでは、職人が削りカス(粉じん)を吸い込んで、肺を悪くする。何とかしろ」というものだった。
そこで、岩倉は知恵を絞り、溶接した部分をモール(外装に取り付ける帯状の部品)で覆うことで、ハンダを削る作業をなくした。それが、ボディを1カ所で組み立てて溶接する画期的な生産方式「マルチウェルディング」につながった。
「溶接ラインが大幅に短くなり、ボディ精度や剛性、それに生産効率がアップしました。熟練工がいなくても溶接作業がこなせるようになり、海外工場を造る際にも役立った。10年ほど経つと、ほかの自動車メーカーも取り入れ、世界の自動車産業のスタンダードになった」