渡部の名を知らしめた最大の危機処理

80年代、米国の銀行は中南米債務危機の煽りを受け経営危機に瀕していた。バンク・オブ・アメリカ、ケミカル・バンク、JPモルガンなど名門と謳われた銀行が経営破綻寸前に追い込まれた。

半ば強制であったが、米政府が内々に日本の金融機関に対して支援を要請した。日本側の取りまとめ役は旧日本興業銀行元頭取、中山素平。その中山が証券業界のまとめ役を依頼したのは当時の野村証券社長、田渕節也だった。この極秘業務を遂行するうえで、田渕と当時の担当役員が相談して指名した部下が、海外業務部で引受企画課長だった渡部だったのだ。

命令された案件について納得するまで食い下がるしつこさと生意気さを持つ渡部だが、能吏としての優秀さを遺憾なく発揮した。何より、業務遂行上のコンフィデンシャル(秘密守秘)は完璧で、渡部から情報が漏れることは一切なかった。

渡部の名を社内に知らしめたのは、98年の野村最大の危機に対しての処理だ。当時、経営幹部だったOBが「今思い出しても背筋が凍る」と述懐するほど、事態は深刻だった。

まず米国野村で当時社長の氏家がスカウトしてきた米国人バンカーが行ったCMBS(商業用不動産ローン担保証券)の巨額損失が発覚。さらにロシア通貨危機を契機に噴出したロシア国債取引などで12億ドルの損失を計上。極めつきは、野村ファイナンスの不動産担保融資の失敗で抱えた巨額の不良債権だった。総損失額は1兆円近くになり「さすがの野村も持たない」と金融当局も緊張したほどだ。

米国野村の社長から野村本体の社長になっていた氏家に、財務担当役員だった渡部は一言、「知らないほうがいい」と呟き、損失処理に氏家らを一切関与させなかった。渡部は野村の救世主だった。