リーマン買収で世界のメーンプレーヤーへの飛躍を狙った野村。だが、その足元では異文化を取りこむ摩擦、国内最強部隊の変調など、今後の懸念材料は少なくない。日本のガリバー野村はどこへ向かうか。気鋭のジャーナリストがレポートする。

ライバル社が消えて野村だけが生き残った

確実に収益を稼いできたのは国内営業部門
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確実に収益を稼いできたのは国内営業部門

「3度目を起こせば会社がなくなる」

1991年の損失補填問題、97年の総会屋への利益供与事件、90年代に起こした2度の不祥事で、野村証券は厳しい社会的批判を受け、信用失墜の瀬戸際に立たされた。社長以下幹部数名の逮捕者を出した総会屋への利益供与事件後、社長に就任した氏家純一は、このように危機感を訴え、信用回復に注力した。

野村証券は、氏家社長在任の6年間でニューヨーク証券取引所へ株式上場を果たし、米企業改革法への対応など米国流のコンプライアンス(法令遵守)経営に邁進する。“ドメドメ”なドメスティック(国内)企業の代表と見られていた昔には考えられなかったことだ。

利益供与事件後、世界的な金融自由化の動き、IT(情報技術)の爆発的な普及、経済のグローバル化、そして新興市場整備などを受けて起こった世界的な金融再編の大きなうねり。だが、日本を代表する証券会社、野村証券は動こうとはしなかった。それはまるで池の底でじっと身を潜める冬の鯉のようでさえあった。

こうした経営姿勢は氏家から2003年にバトンを受けた古賀信行になっても変わらなかった。97年以降、野村のおよそ10年を総括するならば「内向きな10年」、「縮み続けた10年」だった。

身を縮めるようにしてきたこの10年。この間に野村が生き残れたのは、他社の敵失によるところも大きい。97年山一証券はその歴史の幕を閉じた。さらに四大証券会社の一角を占めていた日興証券は外資系との資本提携に活路を見出すが、06年に起こした有価証券取引書の粉飾決算問題で“死に体”となり、身売りの状態である。次々とライバル社が消えていく中、野村だけが生き残った。しかし、野村の直面する現実は甘くない。“何もしないこと、それこそ最大のリスク”。古賀体制を一言でいい表すならばこういうことだろう。古賀は、東京大学法学部卒で、“株屋”とは異なるエリートとして育てられた。この営業経験のないMOF担(旧大蔵省担当)出身者は、動こうにも動く術を知らなかった。社内に漂うのは、閉塞感だった。