“大タブ”さんの時代とはまるっきり違う
そして、時代は流れた。一世を風靡した「すかいらーく」もデフレ経済下の低価格競争の波から徐々に遅れ始め、05年には売上高が前年度を割り込む。創業家である横川兄弟の、とりわけ三男の竟の危機感は強く、それがMBOを決意させる。しかし、横川が頼ったのは主幹事の野村ではなかった。むしろ野村主導を嫌った横川によって意識的に遠ざけられ、野村側はまったく気づいていなかったのだ。野村は、主幹事を務めた企業の裏も表も、社長のプライベートも、社内の内情などすべて知り抜いていた。企業の奥の奥まで入り込むことが当たり前とされた野村は、その影さえもない。
野村証券のまったく知らぬところで横川の計画は進められた。相談先はUBS証券。UBS証券が授けた事業再建の方法の一つがMBO、そして再建のプロとして紹介されたのがCVCキャピタルパートナーズだった。この頃野村は、ようやく横川の動きを察知する。野村HD副社長兼COO(当時)の戸田博史が横川のもとを訪れた。だが、翻意を促す戸田に横川は首を縦に振ろうとはしなかった。戸田の時に声が高くなるような説得にも、「CVCと組んでMBOをする」という横川の決意は変わらなかった。
そして横川はやっと一つの妥協案を提示する。「野村(証券)も案を出してくれ」そこにはかつて「ガリバー」と呼ばれ、担当会社の人事にも大きな影響力を行使していた野村証券の面影はなかった。主導権を握るどころか、無理やり捻じ込んだ野村の出遅れは決定的だった。
野村は譲歩に譲歩を重ね、必要な資金の調達で借り入れを少なくし、出資を増やす、すかいらーくの金利負担が少ない案を出した。その案には横川の“ある案件”を処理する価格も含まれていて、これが野村が参加を許される条件だった。その案件とは創業者、横川家の資産管理会社エス・エイチ・コーポレーション(SHC)に関するものだ。横川たちはこのSHCを通じて、海外でエビの養殖事業などへの投資を行っていたが、投資はことごとく失敗し、数十億円の損出が出ていた。創業家がMBOを目論んだ最大の理由は、この自己損失の埋め合わせのためだった。
SHCにはもう一つの重要な機能があった。すかいらーくグループの食材納入の中間卸として、マージンを吸い上げる機能だ。MBO後にもこの機能を残すことで、すかいらーくに意味のないコストが上乗せされる。これによって、すかいらーくの経営は圧迫されるが、創業家は肥え太る。野村はこうした“悪魔の要求”にも似た提案を案件欲しさに呑んだ。
現役幹部たちの「もう“大タブ”(田渕節也)さんの時代とはまるっきり違う」という言葉も、頷けないほどではない。
そして、経営を再建し、再上場を目指すすかいらーくは8月に横川を解任したのに続き、12月には第三者割り当て増資により新たに500億円を調達した。野村の投資額は1500億にのぼった。金額以上に問題なのは、この案件に見られるように組織がその責任の所在を追及できず、また追及しようとしないことだ。