いまでも忘れない目先の採用増論
1954年6月、東京・田園調布で生まれる。両親と姉、弟の5人家族だったが、会社の社長をしていた父が小学3年のときに亡くなった。中学でバスケットボールを始め、東京教育大附属高校(現・筑波大附属高校)でも続ける。東大時代はやめたが、出身高校の女子チームのコーチを務めた。
就職を控えて会社訪問に回っていたとき、霞が関や新宿の高層ビルを核にした新しい街を目にして「こういう街づくりに関係する仕事もいいな」と思い、三井不動産を選んだ。78年4月に入社。ビルディング事業部の計画課に配属され、土地を購入してビルなどを建てる部署で、用地班に入る。満6年で福岡支店へ転勤し、大規模宅地用地の買収や一戸建て住宅の分譲を経験する。
88年4月、本社人事部へ。まず2年間、採用を担当した。バブルの膨張期で、どの企業も大量に採用していた。三井不動産も、各部門から「人不足が、成長の制約になっている」「物件はいくらでもあるのに、人事が採らないから機会損失をしている」との声があふれ、91年春の入社組には「100人採れ」の社長命令が出た。
しかし、採用すれば、定年まで約40年。「こんな状態が、40年も続くわけがない」と考え、67人に抑えた。それでも過去最高の数だったが、社内からは「もっと増やせ」の圧力が続く。ところが、バブルが崩壊すると、「何で60人も採ったのだ」と言い出した。いまでも忘れない出来事で、企業経営には中長期的な視点が欠かせない、との思いを強めた。
その思いは、横浜支店へ転じた後、99年4月に本社で経営戦略を担う業務企画室長になったときに、いちだんと深めていく。用地買収から販売までを担う開発現場で、部下たちを指導して「庶人者水也」を固めていくことしか考えていなかったので、頭が真っ白になった異動だ。だが、次号で触れるが、その任を6年間務めるなかで、いま社長として推進している路線の大半が固まっていく。
2011年6月、社長に就任。6年間の中期経営計画ができていたが、東日本大震災のために発表を延期した。電力の確保や人口減少など、日本全体にとって、また不動産業にとって最重要とも言える課題も含めて洗い直し、翌春に「イノベーション2017 ステージI」として発表する。この5月、2017年までの「ステージII」を打ち出した。国内外の変化を想定し、10年後に目指すべき会社の姿を、前面に打ち出した。「保有するから活用するへ」という不動産業の中長期的な変貌が、その核となっている。
いまも、部下の開発物件の説明が、自分が描く路線を反映していないと、その場で怒る。「あれだけ言ったのに、全く変わっていない」。萎縮せずにやり直す部下との「舟と水」の関係は、健在だ。
1954年、東京都生まれ。78年東京大学法学部卒業、同社入社。2003年経営企画部長、05年執行役員、06年三井不動産レジデンシャル取締役常務執行役員、08年三井不動産常務執行役員、09年常務取締役、10年専務取締役。11年より現職。