解説書を書いて、武将に配った曹操
「治世の能臣、乱世の奸雄」と呼ばれ、2世紀から3世紀にかけての古代中国の歴史、三国志で華々しい活躍をするトップといえば、魏の曹操です。半ばフィクションの三国志演義は日本でも人気が高く、劉備玄徳と関羽、張飛が活躍する場面も多いのですが、実際の史実では魏の曹操が時代の支配者として描かれています。彼は多くの人物を登用し、「唯才是挙」つまり才能があれば他のことは問わず重用することを掲げて優秀な人材を吸収していきます。
ご存じの方も多いと思いますが、私たちが現在13篇の形で目にする『孫子』は基本的には曹操が編纂し、注釈をつけていた『魏武注孫子』となっています。曹操は『孫子』に自ら注釈をつけた冊子を配下の武将に配って学ばせており、彼が兵法に精通していたこと、『孫子』を元にした組織づくりに並々ならぬ熱意を持っていたことがわかります。
実際、三国志の「正史」「演義」を共に読むと曹操が指揮した魏は、軍師も含めて個人に頼るよりも、軍師集団が活躍している様子がうかがえます。荀イク、荀攸ほか、軍師がキラ星のごとく集合し、一時的に個人の才能で敗れても組織全体の力で盛り返し、いつの間にか天下の大勢を掴んでいったのです。
「俘虜にした敵兵は手厚くもてなして自軍に編入するがよい。勝ってますます強くなるとは、これをいうのだ」
「戦上手は、敵、味方、地形の三者を十分に把握しているので、行動を起こしてから迷うことがなく、戦いが始まってから苦境に立たされることがない。敵味方、双方の力量を正確に把握し、天の時と地の利を得て戦う者は、常に不敗である」(引用『孫子・呉子』守屋洋・守屋淳 プレジデント社より)
曹操は、一時は敵であった張遼という武将を強敵の呂布の軍から抜擢し、その後長年続く戦争の有力な人材に仕立て上げました。一方で能力があっても自分には扱えない呂布を殺し、全体の統率を維持しながら人材の強化を成し遂げています。
諸葛亮孔明という天才が劉備につき、赤壁の戦いのあと中原という地域を魏と争いますが、一時は曹操も自国の都の遷都を考えるほどの危機を迎えます。ところが魏の司馬懿などの献策により、包囲網の弱点だった関羽を背後から突かれ、呉との同盟も瓦解。
突出した才能で一時的な勢いを得ても、総合的な組織力と勝利へ一致団結できる統率力の前には、最終的には負けてしまう姿が描かれているとも言えるでしょう。
曹操は長年組み上げてきた『孫子の兵法』に基づく組織力によって、危機を脱して天下に揺るぎのない勢力を創り上げることに成功したのです。