シンガポール、香港、アメリカへ

この頃、インターネットが普及し始めた。英語力を生かし、ネットに関わる仕事ができるチャンスと思い、イギリスのIT企業の日本法人に移る。本国の本社との通信回線の設計・保守やメンテナンスなどに携わる。ここで、シンガポールから日本に出張で来ていた女性と知り合い、結婚する。34歳のときだった。英語力は、日常生活や仕事で使うときに不自由を感じることがないレベルになっていたという。

98年、退職し、妻の祖国・シンガポールに移る。

「英語力とITのスキルを生かし、海外で一度、働いてみたかった。当時は、子どもがいなかった。若い時期だからこそ、できることだと思った」

このとき、社会人になってはじめて「学歴の重み」を知る。シンガポールで就労ビザを申請するとき、当時は「大卒であること」が条件になっていたという。

「中央大学では留年が続き、一時期は辞めようと思っていた。大学を卒業しておいてよかった、と思った唯一の瞬間でした」

シンガポールでは、世界の主な金融機関が支店を構えていた。98年、日本の大手証券会社のシンガポール支店で、IT部門の一員として働く。年収は350万円ほど。IT部門のほかの社員は、上司を含め、すべてシンガポール国籍。

「職場の雰囲気や匂いは、大手生命保険会社の子会社とよく似ていた。勤勉で、仕事の飲み込みの早い社員が多かった」

仕事にはやりがいを感じたが、日本の本社から赴任した日本人社員との賃金の差に不満を感じた。同じ管理部門にいる同世代の社員との年収と比べると、3分の1以下であることを知る。

「給料が350万円でそのまま据え置きであることを思うと、長くいるところではない、と思った。家では、妻の両親と同居していて、マスオさん状態(苦笑)。収入も多くはないから、肩身が狭かったですね」

98年、退職し、単身で香港にわたる。このまま、日本に帰ることには抵抗感があったようだ。妻は「短い期間ならば」ということで認めてくれた。経理ソフトなど、コンピューターシステム販売の会社に就職。社会人になり、はじめて営業の仕事をしたが、思い描いた結果にはならない。半年で辞めた。

日本には、まだ帰りたくなかった。海外で何かの結果を残したかった。その後、99年、単身で渡米。ホームスティをして、3カ月の語学留学をした。妻には、英語力をもっと磨きたいと説得した。