家族という関係の中で
不自由さを体験するからこそ人は人になれる
家族に限らず、人は多くの宿命を抱えている。容貌、才能、性格など挙げればきりがない。そのほとんどが、不公平で個別的で、一人ひとりに損も得も、それこそ格差をつけて付与されている。
人間はそのような宿命性を抱えながら生きていくしかない。しかし、それは一方で人生の豊かさ面白さ、たたかい甲斐、大半の喜びの源泉でもあるのではないでしょうか。
そして、家族という関係の中で不自由さや理不尽さを体験するからこそ、人は人になれる。家族との関係性があるからこそ、社会的価値観とは別の秤、役に立つとか立たないとかとは別のつながりを手にできる。
家族は、血縁であると共に、誕生から死までに関わる共有する時間の長さでも重い。サン=テグジュペリの『星の王子さま』に、「あなたが、あなたのバラの花をとても大切に思っているのは、そのバラの花のために時間をかけたからだ」ということばがある。これも、家族というものの本質ではないにしても、多くの場合の特質といっていいだろう。
生まれたときは何もできない赤ん坊が、やがて自分の足で歩き、ことばを話すようになり、さらに一人前の大人に成長していくには、親や他の家族が膨大な時間を注ぎ込まなければならない。他人にはない長い時間の共有があるから、家族の間には太い絆ができる。
もちろん、家族ではなくても、強い絆を結ぶことはできる。しかし、それにもやはり長い時間が必要だ。
先日、僕は友人を亡くした。最後に彼を病院に見舞ったときには、もう口も利けず筆談すらできない状態で、死期が近いのは明らかだったが、それでもベッドの傍らにいると、建前の見舞いの口上など不要の沈黙に歳月の重さを感じた。
彼とは小学校からのつきあいで、それこそ半世紀もの間、間遠の時期もいくらかはあったが、長いつき合いだった。小学生の彼が浮かぶのだ。こちらの勝手な感傷かもしれないが、そういうことの重さ、かけがえのなさを強く感じた。
最近は仲のいい人同士が老後を一緒に暮らすというプランも耳にする。無論悪いわけがないが、宿命性のない他人同士。それ以前に長い時間の積み重ねがなければ、プラスのカードを出し合えているだけの関係になりがちではないのか。どちらかのプラスのカードが切れてしまったとき、それでも関係を続けるのには相当の人格を必要とするだろう。
自分の幸せをわがことのように喜んでくれる人は、家族以外にはそうはいない。それもまあ親でしょうね。
兄妹や親しい友人であっても、あまりに相手が幸せそうだと嫉妬を感じたり、相手の不幸が自分の喜びになったりする。人間は根源的にそういう生き物なのですから、そこからぬけ出せる絆は大切にしたいと思う。