一方、1200名からなる指名委員会は「親中派」の富裕層。反中派の富裕層は大半が返還の時期にカナダやオーストラリアへと移住しました。従って、親中派の富裕層から選ばれたこの1200名が「北京政府から愛国心を有すると認められた者たち」です。その中から立候補者をあらかじめ政府が選ぶ形で行政長官の普通選挙をやることになった。これに反中派の市民が激怒した、ということです。
ただし、天安門事件のような政治的デモと今回のとでは性格が異なります。選挙制度だけ見れば、イギリス統治下ではそもそも香港市民に選挙権がなく、トップはすべて英国本土から勝手に押し付けられていたわけです。当時よりはマシですし、大陸の人々はそういう苦々しい思いでデモを見ています。
では、その底流に何があったかというと、香港市民の中国政府に対する恐怖と不安、そして累積した不満です。前述のように、97年7月1日の返還前後に反中派の富裕層はいなくなりました。しかし、カナダの永住権を得るだけでも大金が必要ですから、大半の人は残った。とはいえ、その後の数年間は特にコトもなく穏やかで、北京政府の支配に対する抵抗感はそれほどなかったのです。強いていえば返還後、それまでとは違うパスポート を渡されて、「自分は中国人か?」「外国人からも中国人だと思われているのではないか?」という疑念が生じ、イギリス統治下で培われた「香港人」としてのアイデンティティに危機が生じることはありました。
ただ、それはあくまでも観念的な不安に過ぎず、現実的・実利的な被害ではありません。損得の実利的な被害は、03年のSARSを契機とする変化で生じました。不動産の暴落と、その後の暴騰です。
香港の不動産はこれまでに4回、大きく下落しています。89年の天安門事件。復帰と同じ97年に勃発したアジア通貨危機。そして、02年11月から流行したSARS。直近では08年9月のリーマン・ショックの影響。特にSARSは、いつ終わるとも知れぬ恐怖感があった。02年11月頃から原因不明の新型肺炎が流行り始め、スーパー・スプレッダーと呼ばれる人たちがSARSを急激な勢いで広めました。死に至る病であり、誰もが「自分もかかるかもしれない」と恐れているため外には出ない。営業活動もできませんから、発症地の香港では経済がほぼ停止しました。壊滅的な打撃です。
それは中国政府にとっても危機でした。11月は第16回共産党大会で江沢民が勇退し、胡錦濤・温家宝体制へとリレーした時期でした。新政権が生まれたばかりなのに、香港経済が壊滅的状態に。実は大陸でも相当数の患者が出ていましたが、北京政府がそれをしばらく隠していたことも、香港市民の失望を招きました。