「ぼんやり」に寄与する触媒
先日、とある自治体で、街づくりや若者の市民参画に携わる職員向けのワークショップを行いました。テーマは、「価値観の転換」。「教える」から「教えない」へ、「かたい」から「ゆるい」へ、「非日常」から「日常」へ。従来の地域政策や公共事業の現場にとっては、180度向きが違うと感じるもののようです。
僕から参加者への最初の問いかけは、「『教える』のはなぜか?」というもの。ただ、そこには主語も、条件の設定もありません。参加者の一人が、「すみません、何をどう話せばいいのか、わかりません」と僕に聞いてきました。僕はテーマの提示方法がぼんやりしていることも多いので、これはよくあることです。そこで僕はいつも、「進め方がわからない場合は、同じグループの中の、分かってそうな人に聞いてください」とお願いします。
そこからどんな議論が生まれるのか、どんな条件の設定で、どんな意見が出てくるのか。適当にシャッフルされたグループで進めていくわけなので、僕にもぜんぜん分かりません。それでもその日は、「教えるのはなぜかというと、相手に押し付けられるほど、自分に自信があるから。言い換えれば、相手には信頼を置いていないことにもなる」というような意見が職員から出てきたりして、そこから議論は発展していきました。それは、ワークショップを担当している僕にとって、新しく気づいたり、頭が整理されたりすることばかりです。別にカッコつけてるわけではなく、僕にとって、そこは学びの場です。そして、学べたことがあれば、その場にすぐ還元すればいい。
ワークショップで議論がぼんやりしたり、進行がグダグダになったりすることは、特に企画者にとって、できれば避けたいことかもしれません。でも、議論の場がシャープに進んでいくことそのものには、別に何の価値もないと思います。ちゃんと立つべきところに降りて、一緒に迷路に迷い込む。自分はそこに寄与する触媒に過ぎません。どこまでいっても、しょうもないエゴやコンプレックスにまみれた一人の人間に過ぎません。
次回は、つい最近JK課の女子高生から学んだ、もう一つの大切なことをお話できればと思います。