日露戦争中、第1回旅順総攻撃直前の明治37年(1904)6月、大本営陸軍部は人事を異動し、編制も改正した。
現場では第一~第四軍編制となり、乃木希典大将率いる第三軍は旅順攻略が任務となった。
いずれ援軍にやってくるロシアのバルチック艦隊を海軍が破るためには、陸軍が旅順の山々に点在する敵要塞を占領して、旅順港内に「籠城」しているロシア第一太平洋艦隊の主力旅順艦隊を砲撃しなければならなかった。
乃木が旅順攻略を任されたのには理由があった。10年前の日清戦争で、わずか1日で落とした功績があったからだ。
「昔取った杵柄」を活かせというわけだ。
敵がロシアに替わり、要塞が堅固になっているにしても、容易に落とせると、だれもが思っていた。満州軍総参謀長の児玉源太郎大将も「10日もあれば落ちる」と踏んでいた。
だが第1回総攻撃では5万7百余人中、死傷者1万5800人。第2回総攻撃では4万4千人中、死傷者3830人を出してしまう。
大本営では「乃木を更迭しろ」との声が多かったが、明治天皇の「乃木を替えてはならぬ」の一言で見送られた。
明治天皇は、西南戦争で軍旗を奪われて以来、死に場所を求めて戦いつづけている乃木を思い、更迭させなかったのだ。まして乃木の長男は5月に戦死している。
そして満州軍総司令官大山巌大将の「多大の犠牲をもあえて辞することなく必勝を期すべし」の命令により、第3回旅順総攻撃がはじまった。