ロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊というと、連合艦隊司令長官東郷平八郎、そして参謀秋山真之(さねゆき)が注目されがちだが、じつは連合艦隊は、第一艦隊~第三艦隊に分かれていた。

第一艦隊司令長官
――東郷平八郎中将。

第二艦隊司令長官
――上村彦之丞(かみむらひこのじょう)中将。

第三艦隊司令長官
――片岡七郎中将。

第一艦隊司令長官の東郷が、連合艦隊全体の「総司令官」も兼任していたのだ。

このうち、上村率いる第二艦隊は、日露戦争緒戦で思いもよらぬ「失態」を犯し、汚名をそそぐ必要があった。

ロシア第一太平洋艦隊には、旅順艦隊の別働隊としてウラジオストク艦隊があった。ウラジオストク艦隊は、日露開戦直後から、通商破壊戦を繰り返し、日本にとっては「海賊」に等しい存在だった。

明治37年(1904)4月25日、朝鮮半島北部の日本海側、元山(ウォンサン)沖を航行中の「金州丸」が停止させられ、乗員を下船させられたのち爆沈されたのに続き、6月15日には、それぞれ千人あまりの陸軍兵士を大連湾北東の塩大澳(えんたいおう)に輸送していた「常陸丸」「佐渡丸」、塩大澳で陸軍兵士を降ろしてもどってきていた「和泉丸」が撃沈されるなど、日本船が次々とウラジオストク艦隊の犠牲になっていたのだ。

ウラジオストク艦隊捕捉を命ぜられた上村だったが失敗。大本営に打電する。

「濃霧のため見失った」

これが露見すると、帝国議会が騒然とした。ある議員は野次った。

「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」

議会での騒ぎにより、世論も激昂した。上村の自宅に投石、「露探(ろたん)」(ロシアのスパイ)呼ばわりするありさまだった。

上村にとっては最大の屈辱だった。この汚名だけは、なんとかそそがなければならなかった。