広瀬武夫は、なぜ「軍神」に祀(まつ)り上げられたのか。『坂の上の雲』の主人公のひとり、秋山真之(さねゆき)は、海軍兵学校では広瀬の2学年下だった。とはいえ、真之は予備門から一高をめざしていて兵学校への入学が遅れたため同い歳だった。
真之が海軍水雷術練習所学生を命ぜられて横須賀に転属となったときには、広瀬は横須賀水雷艇隊艇長をしていた。
海軍軍令部諜報課員として着任したのもほぼ同時期で、東京麻布霞町に下宿屋を見つけて、いっしょに住んだこともあった。その下宿の向かいの屋敷のお手伝いさんは、「広瀬さんという人は武張ったかんじだけど、話をしてみると、やさしくて近づきやすい人でした」と証言を残している。真之の性格はその反対だったらしい。
真之がアメリカに留学したとき、広瀬はロシアに留学。真之がアメリカからイギリスに渡ったときには、ロシアに留学していた広瀬とともにヨーロッパの軍港を視察してまわったこともあった。
日露戦争緒戦、明治37年(1904)2月、東郷平八郎中将が率いる連合艦隊は旅順口閉塞作戦を立てた。旅順湾口に老朽船を沈めて、ロシア旅順艦隊を出入りさせないのが目的だった。
「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」
参謀の真之が忠告すると、広瀬は反対した。
「断じて行えば鬼神もこれを避く、という。敵からの攻撃などはじめからわかっていること。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない」
第1回閉塞作戦が失敗したのち、3月27日未明、第2回閉塞作戦を敢行することになった。このとき投入されたのは、「千代丸」「福井丸」「弥彦丸」「米山丸」の4隻。
うち「福井丸」の艦長が広瀬だった。
実行3日前の3月24日、旗艦「三笠」から「福井丸」に出向いた真之は、広瀬に「敵の砲撃が激しくなったら引き返せ」と再度忠告した。だが広瀬は聞く耳をもたなかった。
これが、真之が広瀬を見た最後となった。
まず先頭の「千代丸」がロシアの哨戒艇に見つかるやサーチライトを浴びせられ、砲台から攻撃を受けた。「千代丸」は湾口南東の海岸から100メートルのところに投錨して自沈。「弥彦丸」は東向きに自沈。「米山丸」は「弥彦丸」と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈した。半分は成功した。
「福井丸」は投錨しようとしたところで駆逐艦に雷撃されて船首をふっとばされて沈没しはじめた。そのため広瀬は、砲弾が飛んでこない左舷のボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせようとした。だが杉野孫七上等兵曹がいない。
「おれが捜してくる」
広瀬は上甲板に消えた。広瀬は杉野を3度捜索したが見つからず沈没ぎりぎりでボートに乗り、6挺身ほど離れたところで「福井丸」の爆薬に点火した。
だが、そのボート上で、広瀬は敵の砲弾を頭部に受けてしまい、身体は海中に落ちた。
「朝日」艦長の山田彦八大佐が東郷に提出した報告書には「頭部に撃たる海中に墜落」とある。また『明治天皇紀』には「一片の肉塊」を残して海中に墜落と書かれた。享年数え37。
広瀬は、死後、少佐から中佐に昇進。「軍神」に祀り上げられて、小学唱歌の題材にもなった。美談はひとり歩きし、「軍神広瀬中佐」の6文字だけが人々の記憶に残った。
真之の反対を押し切って閉塞作戦を断行した広瀬は、「福井丸」艦長として部下を生きて帰す義務があった。だからこそ砲弾が降るなか、ひとりの部下を捜してまわったのだ。