明治38年(1905)5月18日ごろから、連合艦隊司令長官東郷平八郎は見るからに痩せていったという。

対馬海峡で待ち受けているにもかかわらず、ロシアのバルチック艦隊が、なかなか姿をあらわさないためだった。

バルチック艦隊が、連合艦隊旗艦「三笠」の左舷南方6カイリに姿をあらわしたのは、5月27日午後1時39分のことだった。艦隊は真っ黒で、煙突が黄色かった。

午後1時45分、首からさげた双眼鏡を右手に持ち、左手には一文字吉房の長剣をにぎっている東郷が「ヘンなかたちだね」と言った。

全容をあらわにしたバルチック艦隊は団子状にかたまっていたからだ。

東郷は、午後1時50分に戦闘開始命令を出し、午後1時55分、「三笠」露天艦橋のすぐうしろのマストにZ旗がひるがえった。旗は対角線で4つに分けられ、上が黄、下が赤、右が青、左が黒。

「皇国の興廃この一戦に在り各員一層奮励努力せよ」を意味している。

「長官、司令塔のなかにお入りください」

先任参謀の秋山真之中佐は、艦橋から動こうとしない東郷に声をかけた。

「ここにいる。わたしは年をとっているから、ここでいい、みんなは中に入れ」

自分の死に場所と決めているように見えたという。

指揮官である以上、その身を危険に晒しても現場から離れないという意思表示でもあった。

バルチック艦隊との距離が8500メートルになっても砲撃を許さず、砲術長が「もはや8千メートルです!」と悲鳴をあげるにいたり、東郷は右手を挙げて、左に円を描いた。

取り舵いっぱい、の命令だ。

南西に進んでいた「三笠」を先頭に、連合艦隊は右に大きく動き、敵前8千メートルで敵の左側へ大回頭をはじめた。

日露緒戦の黄海海戦でも実行した「丁字戦法」。のちに「東郷ターン」と呼ばれて有名になったものだ。「T字戦法」ともいわれるが、どちらかというと「イ字戦法」に近い。

午後2時10分、バルチック艦隊との距離が6400メートルになったところで、東郷は「射撃開始」を命じた。

バルチック艦隊の命中率は低く、連合艦隊の命中率は黄海海戦時に比べて3倍に上がっていた。しかも連合艦隊の砲弾に詰められている下しも瀬せ火薬のおかげで破壊力も向上していた。

連合艦隊とバルチック艦隊の主力同士の戦いは、わずか30分足らずで形勢が決まった。

対馬海峡全域で追撃戦がおこなわれ、翌28日正午前には決着がついた。

バルチック艦隊旗艦「ニコライ一世」のマストに降伏旗「X・G・E」が掲げられた。

「長官、敵は降伏です」

秋山真之が声をかけても東郷は「撃ち方やめ」の号令をかけようとしない。

「武士の情けであります」

「降伏するなら艦を停止せねばならん」

国際法上のルールだった。東郷は、指揮官として、詰めの甘さを微塵も見せなかった。

バルチック艦隊の戦死者は4524人、捕虜は6168人。連合艦隊の戦死者は116人、負傷者は570余人だった。

「三笠」には何千発もの砲弾が飛んできたが、東郷のいる露天艦橋には一発も命中せず、大きな弾片がひとつ飛んできたにすぎなかった。

充分な迎撃態勢、「丁字戦法」、下瀬火薬など日本海海戦を勝利に導いた要因は多々あるが、終始、艦橋から動かず、大きくかまえている指揮官を見れば、部下たちは奮闘努力する。東郷の背中はそう語っている。