明治以前は緩やかに曳かれていた
明治14(1881)年9月、朝日新聞は、岸和田の祭りの日に「大合戦」があり、27、28人が負傷し、うち2人が即死したと伝えている。ただし、当時の死傷はやりまわしによるものではない。けんかだった。
岸和田のだんじり祭は、市街地の町内にあたる「町」が、それぞれ1台ずつだんじりを持って曳く祭りだ。岸和田地区(旧市)では22の町が参加し、各町は自分たちのだんじりの曳きぶりを競い合う。
明治のころ、各町のだんじりは城下町のメインの通りである紀州街道を、南北に行き来していた。市史によれば道幅は約5.4メートル。だんじりの幅は約2.2〜2.4メートルだから、2台がすれ違えば、残る幅はわずかしかない。そこで、だんじり同士の接触などから、曳き手によるけんかが頻発したのだ。
明治以前のだんじりは車軸に樫の木を使っていて摩擦が大きく、緩やかに曳かれていた。大正期に金属製の車軸が使われるようになると、以前より速く走れるようになり、すれ違いの危険も増した。伝統行事といっても、その時代の技術を取り込みながら姿を変えてきた。速さをめぐる問題は、明治の時代から続いていたのだ。
戦後、祭りは大きな転換点を迎える。戦時中に疎開道路として作られた道が曳行コースに加わり、一本の細い通りを往復していた祭りが、街をぐるりと回る形になった。トラブルの種だった「すれ違い」は、こうして避けられるようになった。
「田舎の村祭り」→「見せる祭り」への変化
ただ、問題が解消すれば新たな問題が生まれるのはいつの時代も同じだ。
道の往復なら角を曲がる必要はないが、周回するようになると、交差点を曲がる場面が必ず発生する。勢いよく曲がる「やりまわし」が新たな見せ場になり、各町はけんかだけでなく、曳行の激しさを競うようになった。
規制も強まった。1958年には一方通行の規制が敷かれ、翌59年、大阪府警はだんじりにブレーキの設置を義務づけ、「走らない」ことを曳行の条件とした。それでも、だんじりは走った。けんかも転倒事故も続いた。そうしたなか、1963年に「パレード」が始まる。全町のだんじりが交差点「カンカン場」に集まり、観客の前で順番にやりまわしを披露する。過激なやりまわしは、こうして祭りのハイライトに据えられていった。
有本氏の論文「都市祭礼における『暴力』と規制」には、一連の規制による変化を振り返る祭り関係者の証言が引かれている。
「見せる祭りになってきたんはそっからやな。それまでは、ほんと田舎の村祭りでしたよ。」
有本氏は「規制をすれば、おのずと規制されないところに力を入れるようになる。そういうものの積み重ねが、激しくやりまわしをするという形として結実した」と語る。
