毛利の面子にまで及んだ
緊急事態を察した秀吉は9月8日付で次の指令を出した。
・小早川(毛利)秀包を大将、安国寺恵瓊を副将として肥後へ部隊を派遣。
・部隊の二番備に黒田孝高と森(毛利)吉成、三番備えに小早川隆景、さらに隆景の指揮下には龍造寺、鍋島、立花ら九州の有力諸将。
・隆景の後備えには毛利輝元(『小早川家文書』)。
秀吉は成政だけでは一揆を鎮圧できないと判断し、西日本の有力諸将を動員したのである。もはや総力戦と言って良かった。
10月14日付で浅野長政、石田三成、増田長盛3人の連署覚書が、安国寺恵瓊と小早川秀包に出された。それによると毛利輝元に一揆鎮圧を強く指示するとともに、それでも足りないなら秀長・秀次・宇喜多秀家ら豊臣一門衆の中枢を派遣し、さらに四国の大名たちも投入すると知らせた。
毛利は面子にかけても一揆勢を倒さなければならなくなった。
12月15日、安国寺恵瓊が降伏を勧告し、一揆勢が受け入れる。同21日、小早川隆景が秀吉に「悪徒等誅罰せしむ」との書状を出した。「誅罰」と書かれている通り、一揆勢には苛烈な処罰が待っていた。
翌年の天正16(1588)年閏5月14日付、小早川隆景宛て秀吉書状によると――。
「一揆を起こした国人は千人余も首を刎ね、そのうちの大将分百人ばかりを大坂へ持ってこさせたのに、喧嘩の相手である陸奥守(成政)が助けられては国々の者が秀吉の紛れ(気紛れ)と思うから、腹を切らせる」
一揆の原因をつくり、なおかつ制圧に失敗した成政には、切腹以外の選択肢はなかったのである。結局、秀吉は扱いづらかった肥後の在地勢力と成政を一網打尽にしてしまった。
時代と戦略を見誤った男の最期
ただし、こうも書いている。
「成政の家臣たちは曲事(不正)をおかしたわけではないので、分に応じて知行を与え、肥後に居住することを許す」
秀吉は無慈悲な主君という印象を持たれるのを警戒し、切腹を正当化するため一揆勢との「喧嘩両成敗」を持ち出したフシがある。閏5月14日付隆景宛て書状と似た内容のものが加藤清正、島津義弘、立花宗茂、大友義統、龍造寺政家ら、九州諸将にも送られている。
その閏5月14日、成政は腹を切った。『菊池佐々軍記』によると享年53。
成政という人はそもそも生年がはっきりせず、しかも江戸時代に編纂された史料では、没年齢も諸説あって曖昧だ。現在は以下の3説がある。
1.永正13(1516)年誕生、没年齢73(『武徳編年集成』など)
2.天文5(1536)年誕生、没年齢53(『系図編要』『菊池佐々軍記』)
3.天文8(1539)年誕生、没年齢50(『野史』)
一般的には「2」が有力とされているが、前述の『シリーズ織豊大名の研究 佐々成政』によると、史料の信ぴょう性が高いのは「1」であるという。ただし答えは出ていない。
「さらさら越え」の伝説といい、謎の多い男といえる。わかっているのは時代と戦略を見誤り、結局は秀吉に粛清されたということだろう。
参考図書
・花ヶ前盛明編『佐々成政のすべて』所収、森本繁著「佐々成政の肥後支配」(新人物往来社、2002年)
・萩原大輔編者『シリーズ・織豊大名の研究11 佐々成政』所収、萩原大輔著「総論」(戎光祥出版、2023年)
・大西泰正編者『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』所収、石野友康著「織豊期加賀前田氏の領国支配体制」(戎光祥出版、2023年)
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