釈明すら許されず切腹を命じられる
「豊臣兄弟!」11月1日放送回の終盤、佐々成政の不手際に対し、秀吉が断固処罰すると吐き捨てる場面が登場しそうだ。
いったい成政は何をしでかしたのか? また、秀吉との因縁は? など、大河ドラマが詳細を省いてしまうであろう部分を本記事では紹介したい。
「豊臣兄弟!」で描かれる場面は天正16(1588)年2月。前年、秀吉に肥後(熊本県)を与えられていた佐々成政が、同地をうまく統治できず秀吉の怒りを買った。そこで成政は、秀吉に釈明するため尼崎(兵庫県)までやって来たが、秀吉は取り合おうとせず、すでに処分は決まっていると言い放った。
その処分とは、切腹だった(同年閏5月14日に死去)。伝承では腹を切った直後、悔しさから内臓をつかんで天井に放り投げたというが、後世に誇張された創作だろう。
それより問題は、秀吉が自刃させるほど強硬な態度に至った経緯である。
話は天正15(1587)年にさかのぼる。3月、秀吉は大軍を率いて大坂から九州へ出陣した。目的は島津の討伐。すでに前年から九州平定に乗り出してはいたが、15年1月に宇喜多秀家、2月に弟の秀長が出陣し、3月の秀吉出撃はいわば総仕上げだった。
そして2カ月後の5月には島津を降伏に追い込んだ。
交渉力が評価され、肥後を任された
佐々成政も従軍し、戦功をあげた。その結果6月2日、秀吉は成政に球磨郡(熊本県南東部)と天草郡(同南西部)を除く肥後全土を与えた。
このときの成政の功績とは単なる武勇ではなく、島津の降参を仲介する役割を果たした点が評価された、という説がある。実際、成政が島津義弘(島津家当主・義久の弟)に宛てた書状に、成政と義久が直接面会したことを示唆する文面があるという(『シリーズ・織豊大名の研究11 佐々成政』の総論より)
成政は越中(富山県)を治めていた実績もある人物で、九州平定においても島津への取次を担うなど、外交能力も持っていた。だからこそ秀吉は、肥後を任せたのである。
だが肥後の統治は容易ではないと予想されたため、秀吉は6月6日、成政に次の指示を出した。
・肥後国五十二人の国人に先規のごとく知行(ここでは有している土地を指す)を渡す事(以前から肥後にいる国人衆=在地武士52人には、これまで通りの知行を許すこと)
・三年検地あるまじき事(検地は3年間してはいけない)
・百姓等痛めざるよう肝要の事(農民を苦しめてはいけない)
・一揆を起こさざるよう遠慮あるべき事(一揆が起きないよう配慮せよ)
天正十五年六月六日 佐々陸奥守(成政)殿へ
他にも数項目あるが、ここでは上記の4カ条だけ記した。というのもこの4カ条が大きな波乱を呼ぶからである。
