「3年待て」を破り、一揆を招く
まず第一に成政からすれば、国人衆52人の知行を従来通り認め、さらに検地もできないとなれば、肥後へ連れてきた家臣団を養うための財源を確保するのに支障をきたす。そこで成政は、国人たちに所領の詳細を提出させ、検地を急ごうとした。
第二に国人たちの立場。彼らからすれば服従すべきは、あくまで所領を安堵してくれた秀吉と考えるのが当たり前で、成政の存在など邪魔でしかない。
第三に秀吉の思惑。肥後の国人たちは、島津をはじめとした強大な戦国大名たちの間を巧みに渡ってきた「辺境型小領主」であり、その力量と気質はひと筋縄にはいかないゆえ、彼らを懐柔するには時間もかかる。短時間で頭ごなしに押さえつけては反発を招くだけ、という考えがあったと思われる。
要は3年くらい検地をせず、様子を見ろということだ。
だが、成政は待つことができず、国人に検地を要求し、武力衝突を引き起こす。国人たちには数千人に及ぶ農民が従っていた(『肥後国古城考』)。この蜂起は一揆を意味していた。
前田利家と何が違ったのか
佐々成政は、前田利家とよく比較される。もともとはともに柴田勝家の与力であり、成政、利家、不破光治で越前(福井県)の「府中三人衆」を構成していた。
さらに勝家が北陸で勢力を伸ばした天正9(1581)年には、成政は越中の富山城に入城し、天正13年まで越中を支配した。
一方の利家は、同じく天正9年から能登を支配下におき、統治に際立った成果をあげていた。利家も能登に入るや検地を実施したが、そのやり方は肥後で成政が行った強引な手法とは大きく異なっていた。
有力な地侍(武装農民)に村を管理する権限を付与し、扶持(給料)も与えることによって、スムーズな年貢徴収を可能にしたという(『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』所収「織豊期加賀前田氏の領国支配体制」石野友康著より)。
新しい領主が矢面に立つと波風が立ちやすいため、在地の主要人物に権限を委譲する。すると、その者たちも新しい領主の統治策の一端を担うことになり、利益を得られる。
秀吉は、こうした利家の手腕に一目置いていたのだろう。成政にも「うまくやってくれ」との期待を寄せていたと考えられるが、案に相違し、成政は失敗した。
秀吉の失望は大きかったかもしれない。

