「地元がない」のがネックに
さらにいえば、2011年にNHK大河ドラマ『江 姫たちの戦国』が放送された際には、岡山でも「光政の正室・勝姫は江の孫。ということは、お市の子孫ではないか」と大河ドラマにいっちょかみしようと盛り上がっている。
別に、大河ドラマに恒興が出ても、こんな盛り上がり方はしない。
物語も観光資源も、全部子孫のほうにある。
では、なぜ恒興本人は盛り上がらないのか。その最大の理由は、「地元がない」ことである。
実のところ、息子の輝政は姫路城を現在の姿にしたすごい人物。そこへ至った道筋をつくった恒興は、なぜかいつもいるけどいまいち何者かが知られていない。小林将司「系図史料にみる大名池田家の出自と摂津――池田恒興の摂津支配についての一試論」(『史叢』77号、日本大学史学会、2007年)では、その冒頭で恒興に関する研究がとぼしい理由に触れている。ここで挙げられる理由は、次のようなものだ。
1:恒興に関する同時代史料(特に本能寺の変以前の史料)が少ない
2:長久手の戦いでの敗死によるマイナスイメージが大きい
3:跡を継いだ輝政の陰に隠れてしまい目立たないこと
どうだろう、研究の乏しさの理由がそのまま人物としての盛り上がらなさとイコールになっているではないか。さらに小林は、恒興が信長の一字を賜り信輝と改名したとされる一方、戦死のわずか一月前の禁制でも恒興と署名している点に触れ、実名すらはっきりしていないと指摘している。
源氏の家系に「楠木家」を接ぎ木した系図
そんな人物だから、信長の乳兄弟であったことはわかっても、そもそもの出自すらはっきりとはしない。小林の論文は、恒興が摂津支配を任せられた背景を追うものだが、その前提として『寛永諸家系図伝』の記述を紹介している。
これは、1641〜43年に岡山・鳥取両池田家がそろって幕府に提出したこの公式系図なのだが、読むとなかなかすごいことになっている。
まずここで両家が主張する本筋は、清和源氏頼光流だ。瀧口奉政こと池田右馬允を祖とする、由緒正しい源氏の末裔というわけである。ところが、その子孫・池田教依のところで、突然「河内新判官楠正行の遺腹の子」を引き取って育てた、という話が挿入される。そしてこの養い子から代々続いたというのだ。
つまり公式の家伝の主張はこうだ。もともとは清和源氏の血筋であった。それが、楠木正行の妻が正行の死後に、子供を身ごもったまま池田教依に嫁ぎ、産まれたのが教正。その後一族は代々摂津に居住しており、恒興の父・恒利は将軍・足利義晴に仕えた後に尾張に移り、そこで産まれたのが恒興というもの。清和源氏の血筋のはずが、途中で楠木正行の血筋に接ぎ木されているのである。

