「豊臣兄弟!」チーフ演出が語るには…

茶々の描き方も同様である。落城した柴田勝家の北庄城(福井市)から救出された茶々と初、江の三姉妹に、なにかを主体的に選ぶ手立てがあったはずがない。

秀吉の別妻に迎えられる話が持ち上がった際、茶々は二人の妹の縁談も同時にまとめるように求めたとされ、そこに主体性の片鱗が見えないではない。だが、自分が生きる場所を選ぶことはできなかった。当時の女性たちにとっては、主体性は押し殺して男の決定に従うことこそが生きる道であった。

「豊臣兄弟!」のチーフ演出は、たとえば茶々の実母の市(宮﨑あおい)について、これまでのように周囲の男たちの決定に従うのではなく、「主体性をもって運命を選ぶ女性」として描写した、と語っている(MANTANWEB 5月3日配信記事)。その背景には、男たちの決定に従う女性を、男尊女卑の被害者だと捉える考え方が見てとれるが、それはあくまでも現代人の価値観である。

すでに述べたように、当時の女性たちは大事なものを守るために男たちの決定に従ったのであり、そういう女性を被害者と捉えた時点で、戦国時代の人間心理も人間模様も見えなくなってしまう。

NHK
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歴史ドラマで女性を解放して何になる

市は「主体性」を発揮して、夫の浅井長政(中島歩)を介錯し(5月3日放送の第17回「小谷落城」)、柴田勝家のもとへ嫁ぐことも自分の意志で決めた(8月9日放送の第30回「私を娶れ」)。そして、主体性を発揮した母を尊敬する茶々も、母に倣って主体的に秀吉の妻になる。

だが、なんのために現代人の感覚を導入し、戦国の女性たちの「地位向上」を図ろうとするのか、筆者にはまったく理解できない。

戦国時代の女性が現代の女性にくらべて抑圧され、男の支配下に置かれ、自由がなかったことは疑いがない。それでは気の毒だから、戦国女性に主体性をあたえて少しでも救おうというのだろうか。しかし、歴史ドラマのなかで女性を解放してなんになるのか。なにもならないばかりか、歴史への誤解を生み、そのうえ、女性が時間をかけて権利を獲得してきたという歩みから目を逸らすことにもなる。

主体性を発揮できなかった戦国女性の本音を掬い上げるなら、価値がある。視聴者がそこへ思いを馳せ、現代女性との違いを理解することにも意味があると思う。女性の本音が報われる社会は、一朝一夕にできあがったのではない。ドラマを通してそのことを身に染みるのもいい。

いずれにせよ、女性が時間をかけて獲得したものに敬意をいだくなら、戦国女性に主体性をもたせるなどという発想にならないと思う。時流に合わせるように、戦国女性にまで主体性をもたせるなど、女性をバカにした解釈ではないのか。