「私の死」だけは誰にも語れない

死には「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があるとされる。フランスの哲学者ジャンケレヴィッチが示し、日本では柳田邦男さんらが広めた考え方だ。

三人称の死は、ニュースや統計で知る見知らぬ人の死である。冒頭の160万人という数字もそうだ。

二人称の死は、親や配偶者、親友など身近な「あなた」の死で、人が最も深い悲しみを味わう死である。

そして一人称の死が「私の死」だ。

死があるとき私はこの世にいないので、自分の死を体験して誰かに伝えることはできない。自分で死亡診断書を書くとは、この語りえない「私の死」を、あえて言葉にしてみる作業だとも言える。

医学は死を生物学的な事実としては詳しく説明してくれる。しかし「私の死」の意味までは教えてくれない。

人混みの中央で、スポットライトが当たる一人の女性
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私たちは科学や医療の恩恵を受けながら、自分の死からは目を背け、どこか漠然とした宗教観に支えられて生きてきた。科学や医療は、自分を切り離して初めて確固たるものとして成立するのであり、自分も込みにして考えると途端に簡単ではなくなる。

病院で家族に見守られて最期を迎えるというかつての標準モデルは、単身世帯の増加や医療・介護の担い手不足によって揺らいでいる。

「なんとなく」でやり過ごせる時代はいつまでも続くとは限らない。自分の死には、自分で意味づけをする時代が来るのかもしれない。

母を介護「人はやっぱり朽ちていく」

ただ一人称の死をいきなり考えるのは難しい。手がかりになるのが二人称の死であろう。

会社員時代から30年以上世話になっている5歳上の先輩は、80代の母親を自宅に呼び寄せ、三度の食事もすべて自ら作っていた。その理由を尋ねると「母には世話になったから」、そして「親の介護を通して、自分の老いと死について考えてみたい」と答えた。

母親が90歳を過ぎて亡くなった後、彼は「人はやっぱり朽ちていく。私が小さい時には万能だった母も無力になっていった」と語り、「死ぬことやエンディングノートはまだ先でいい。残された元気な時間をきちんと過ごすことが大事だと思い知った」と言う。

今の一番の楽しみは音楽仲間とのバンド演奏で、気楽に情報交換し合える井戸端会議のような場が大切だと話していた。

高齢化問題を大上段から論じるのではなく、身近な人の老いと死に寄り添い、そこから自分の老いや死を見つめ直す。二人称の死から一人称の死へと近づくという優れたアプローチではないかと感じたのである。