家康には合計11人の男子が生まれた

蔭山殿かげやまどの・お万の方(1580~1653)は上総勝浦城主・正木頼忠の娘で、母親が再縁した蔭山氏広の養女となる。慶長7(1602)年に23歳で十男・紀伊徳川頼宣、翌慶長8年に十一男・水戸徳川頼房を生んだ。

紀州徳川家の祖となった十男・頼信の肖像
紀州徳川家の祖となった十男・頼宣の肖像(写真=和歌山県立博物館所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
水戸徳川家の祖となった十一男・頼房の肖像画
水戸徳川家の祖となった十一男・頼房の肖像画(写真=『原色再現 江戸大名家藩祖の肖像画』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

お梶の方・英勝院(1578~1642)は北条家臣・太田康資の娘である。慶長12(1607)年に30歳で家康の五女・市姫を生んだが、市姫が早世してしまったので、蔭山殿の子・水戸徳川頼房、および結城秀康の次男・越前松平忠昌ただまさを養育した。家康の死後、お梶の方は落髪して尼となり、英勝院と名乗った。聡明な女性として有名で、秀忠や家光が旧事について諮問することもあったという。

お久の方(?~1617)は北条家臣・間宮康俊の娘で、文禄4年に家康の四女・松姫まつひめを生んだ。

晩年に家康が寵愛したお六の方の悲劇

お夏なつの方(1581~1660)は北畠旧臣・長谷川藤直の娘。『家康の族葉』によれば、慶長2(1597)年に17歳で側室になった。

お梅うめの方(1586~1647)は青木一矩の娘といい、家康の側室を経て、本多正純(正信の子)に下げ渡されたという。

お六ろくの方(1597~1625)は今川旧臣・黒田直陳の娘で、英勝院の部屋子として、慶長年中に奥勤めした。晩年の家康が好んだものを、俗に「鷹殿、佐渡殿、お六殿」と呼ばれたほど寵愛され、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、陣中にまでお供した。家康の死後、秀忠の世話で旧足利家の喜連川きつれがわ家に再縁したが、寛永2(1625)年に日光東照宮参詣時に突然、亡くなった。雷に打たれたとも、香炉が割れた破片がもとで疵きずを負い、わずか29歳で死去したともいわれる。人々は家康の嫉妬によるものと噂した。

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