なぜ五男と六男の間が10年近く空いた?

中村孝也氏はその著書『家康の族葉』で、家康が天正11(1583)年9月に「五男信吉を儲けてのち、まる10年間子供ができなかったのに」文禄元(1592)年になって急に、六男・忠輝をもうけたのは奇異だと感想を述べている。おそらく、この間、秀吉の妹・あさひを継室に迎えたので、彼女が天正18(1590)年1月に死去するまで、子どもをもうけなかったのであろう。さすがは家康、後年「律儀な内府だいふ(=内大臣)」と呼ばれただけある。換言するなら、その間、家康は避妊もしくは堕胎していた可能性がある。

お茶阿ちゃあの方(?~1621)は庶民(農民?)の河村氏(一説に山田氏)の娘として遠江国金谷に生まれ、鋳物師の妻となり、一女をもうけた。代官がお茶阿の美貌をうらやんで夫を殺し、自分のものにしようとしたが、お茶阿は一人娘を連れて、鷹狩り中の家康に直訴して見初められ、文禄元(1592)年1月に六男・松平忠輝ただてる、七男・松平松千代まつちよを生んだ。双子である可能性が高いが、松千代を文禄3(1594)年生まれとする説もある。家康の側室の中でも最も身分が低く、そのため、忠輝は愛されなかった可能性が高い。

北条旧臣の娘、11歳と13歳も側室に

お亀の方(1573~1642)は石清水八幡宮の社家・志水宗清の娘で、美濃斎藤家の家臣・竹腰正時に嫁ぎ、天正19(1591)年に竹腰正信を産んだのち、夫と死別した。その後、豊臣秀吉の家臣・石川光元の側室となり、文禄3(1594)年に石川光忠を産んだが離縁され、家康に見初められたという。

しかし、生後間もない子を残して離縁されるというのは尋常ではなく、家康に見初められて離縁させられたというのが実態ではないか。文禄4(1595)年3月に八男・仙千代、慶長5(1600)年11月に九男・尾張徳川義直を生んだ。

お亀の方が産み、尾張徳川家の祖となった九男・義直の肖像画、江戸時代
お亀の方が産み、尾張徳川家の祖となった九男・義直の肖像画、江戸時代(写真=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

天正18(1590)年の小田原合戦で北条家は滅ぼされ、家康がその旧領に転封となった。いわゆる関東入国である。

家康は北条旧臣の娘を側室としている。蔭山殿・英勝院はいずれも天正18年に10代前半で奥勤めしたと『幕府祚胤伝』に記述があるが、当時、蔭山殿は11歳、英勝院は13歳である(お久の方は生年不詳、いつ側室になったかも不明)。現在でいえば、まだ小学生である。いくら何でも側室というのは早すぎる。おそらく人質として差し出された女性に手を付けたのであろう。