秀忠の母は三河国衆の孫娘で再婚

西郷局さいごうのつぼね・お愛の方(1562~1589。1552生年説あり)は三河国衆・西郷正勝の孫娘で、父は戸塚忠春、母が正勝の娘にあたる。天正7(1579)年4月に家康の三男・徳川秀忠、翌天正8年9月に四男・松平忠吉ただよしを生んだ。父・忠春が討ち死にした後、西郷局の母が蓑正尚みのまさなおに再縁したので、その養女となり、従兄弟いとこの西郷義勝に嫁いで一女をもうけた(一男一女説あり)。しかし、義勝も元亀2(1571)年に討ち死にし、家康に見初められた。西郡局と同じく、西郷家の人質として家康のもとに送られ、手が付いたのではないか。

西郷の局(お愛)の肖像画
西郷の局(お愛)の肖像画(写真=宝台院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
西郷の局が産んだ徳川2代将軍・秀忠の肖像画
西郷の局が産んだ徳川2代将軍・秀忠の肖像画(写真=ブレイズマン/西福寺所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

家康の近くに奉公し“お手つき”になるパターン

これに対し、家康の次男・結城秀康の母、永見ながみ氏・お万まんの方(1548~1619)は卑賤ひせん(身分が低い、武家ではない)の出だったらしい。「三河池鯉鮒の住人永井(永見の誤りか)志摩守吉英の女であるといい、或いは尾州熱田社の禰宜村田意竹の女むすめであるともいい、その生い立ちは明らかでないが、微賤の出と思われる。築山殿夫人に仕え、浜松において奥勤めをしていたところ」、家康の寵愛を受けたという(『家康の族葉』)。

秀康は天正2(1574)年2月に生まれ、幼名を於義伊おぎい、または於義丸おぎまるという。ギギという魚に顔が似ていたからだという。この名前が示す通り、秀康は家康に疎まれていた。その理由として、自分の子ではないと疑ったという説や当時忌み嫌われていた双子だったからという説があるが、実際は実母の身分が低かったからだと思われる。

結城秀康の肖像画、松平直之氏所蔵の絵の模本
結城秀康の肖像画、松平直之氏所蔵の絵の模本(写真=東京大学史料編纂所所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)