四国征伐における負傷の記録はない
こうした能力がある以上、秀吉が「片腕」として信頼を置いたのも当然だろう。四国征伐後は、勝利に導いた功労者として、阿波一国17万3000石をあたえられた。しかし、正勝はこの大抜擢を辞退している。地方の国持大名になって秀吉のもとを離れるより、秀吉の側近くに仕え、これまで同様に政務や外交を支える道を選んだのである。
辞退した理由は、必ずしも明瞭にはなっていないが、大永6年(1526)生まれとされる正勝は、その時点で数え60歳。現代と違い、当時の60歳は自他ともにかなりの高齢と認識された。いまさら阿波に下って国を治めるよりも、身を引くべき年齢ではないか。正勝がそう考えた、という見方は根強い。
ちなみに、この時点で正勝が病気にかかっていたとか、ケガをしていたという情報はない。「豊臣兄弟!」では戦場で負傷していたが、四国征伐で正勝が負傷したと書かれた史料はない。
ただし、正勝が身を引いたといっても、決して無欲だったのではない。阿波一国は嫡男の家政にあたえてほしいと、秀吉にしっかり願い出ていた。稀代の交渉人は、そのあたりがしっかりしていたのである。
明治維新まで一度も転封がなかったワケ
「豊臣兄弟!」で仄めかされたように、四国征伐の翌年である天正14年(1586)5月22日、正勝は大坂で死去する。四国征伐ののち、本人が望んだように秀吉の側近くで外交交渉などに勤しんだが、天正14年になると体調を崩し、病に臥すようになっていた。肺結核ではないか、とされている。
ところで、嫡男の家政を祖とする徳島藩の蜂須賀家は、秀吉恩顧の最右翼というべき外様大名でありながら、明治維新を迎えるまで一度も転封(国替え)がなかったという、非常に珍しい大名家となった。しかも、豊臣家が滅んだ大坂夏の陣後には、淡路(兵庫県の淡路島と沼島)7万石を加増され、25万石の大藩となり、その後、減封されることもなかった。その理由は逆説的だが、秀吉に忠実だったから、といえる。
家政は秀吉の2度にわたる朝鮮出兵に、2度とも出陣した。とくに2度目の慶長の役では、慶長2年(1597)の蔚山城の戦いなどで、窮地に陥った加藤清正や浅野幸長らを助け出している。
ところが、その後、あまりの苦戦を経験した家政らは、明と朝鮮の連合軍を追撃せず、さらには戦線を縮小すべきだという考えで合意した。ところが、現地でその状況を監視していた軍目付の福原直高が、家政らの行動を臆病で勝手だと、義兄である石田三成(直高は三成の妹婿だった)を通して秀吉に進言。秀吉は激怒し、一時は家政の改易(取り潰し)まで言い出した。

