決して「荒くれものの野武士」ではない
「豊臣兄弟!」では、正勝はこうして秀吉を説き伏せたが、当時の史料などからは、他家との交渉にも力を発揮する人物だったことがわかる。荒くれものの野武士というイメージが根強い正勝。そういう側面もあったのかもしれないが、冷徹な判断力を備えたすぐれた交渉人だったことが、近年の研究でますます明らかになっている。だからこそ、長く秀吉の側近でい続けることができたのだろう。
正勝は元来、尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)の国境を流れる木曽川流域で、水運や流通を支配した土豪集団「川並衆」の頭目だった。若いころから水運をめぐるやりとりを重ね、他者との交渉に長けていたのかもしれない。
本能寺の変が起きた際、秀吉は毛利方の備中高松城(岡山市北区)を水攻めにしていたが、この水攻めという策を編み出したのは正勝だという見方は根強い。また、秀吉が急いで上京するために、毛利方との和睦交渉を、黒田官兵衛とともにまとめ上げたのも正勝だった。
そして四国征伐に関しても、長宗我部元親を屈服させるうえで、正勝の交渉力が大いに有効だったようだ。
長宗我部元親の手紙に遺された感謝
秀吉は天正13年(1585)6月、四国征伐を前にして、伊予(愛媛県)から進軍する小早川隆景に文書を送った(京都国立博物館蔵)。そこには、蜂須賀彦右衛門(正勝のこと)と黒田官兵衛尉に相談して、くれぐれも「越度(落ち度のこと)」がないように、という指示が書かれている。この内容から、正勝がたんに従軍する以上の役割を負っていたことがわかる。
阿波(徳島県)の木津城攻めでは、秀長率いる軍勢の先鋒として攻撃し、追い詰められた城主と叔父を説得して開城に導き、流血の事態を回避することに成功している。
また、屈服したのちの長宗我部元親が、蜂須賀正勝に送った書状が遺されている(徳島市立徳島博物館蔵)。そのなかで元親は、正勝の執り成しによって秀吉の赦免が得られたとして、かなり丁重に謝辞を述べている。そればかりか、今後もよりいっそうの「指南」をお願いしたいと、正勝に頼んでいる。
仮にも元親は、秀長の軍勢を迎える直前に、四国をほぼ統一したほどの戦国大名である。そんな人物が平身低頭して謝辞を述べ、今後の執り成しを頼むほど、正勝の交渉力と、その際の信頼度が抜群だったことが伝わる。
「豊臣兄弟!」では、正勝は秀吉を説き伏せはしたが、元親と交渉して屈服させたのは秀長だった。しかし、当時の文書からわかるのは、正勝こそが元親と直に交渉し、四国征伐を成功に導いた、ということである。

