せんとくんの「違和感」を考える
ふと、西洋の宗教画に描かれる「幼子イエス・キリスト」には、子どもらしい愛らしさがない、という話を思い出した。どれも、人生を2周くらい終えていそうな貫禄があるのだ。
これには「キリストは生まれた瞬間から全知全能の神である」という、宗教的な理由があるそうだ。しかし文脈を知らなければ、違和感しかない。
せんとくんへの拒絶も、同じ構造だったのではないか。私たちは、せんとくんの背後にある日本文化の文脈を、すぐには読み取れなかった。だから「幼子キリストの貫禄」を前にしたときと似たハレーションが起きたのではないか。
せんとくんのルーツは、「童子シリーズ」、ひいては日本の神仏習合やアニミズム文化にある。そうした背景を知らずに見れば、子どもの姿をしながら妙に大人びた目も、頭から生えた鹿の角も、ただ異様なものに映ったのかもしれない。
しかしその姿も、日本文化の延長線上にある。見慣れるうちに、日本人としての親和性が生まれたのではないか。
考え抜いて、この仮説に至った。
先生が語った「人生はあみだくじ」という言葉を思い出す。せんとくんの炎上は、先生にとってあみだくじ上に突然現れた横線だったのだろうか。そこには、「傷つき、乗り越えた」というわかりやすい物語性も、読む人の背中を押す教訓もない。
考えても、答えの出ないこともある。それでも、考えることをやめてしまったら、人間である意味はない。
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