記者の聞き書きではなく直筆の原稿

当代随一の批評家も絶賛した角栄の連載は、日経の記者や秘書らによる聞き書きではなく、角栄本人による直筆原稿であったと早坂が証言している。

その内容はまさに「達意平明」だった。冒頭はこんな調子で始まる。

大正七年五月四日、私は新潟県刈羽郡二田村に生まれた。越後平野の真ん中、唄で名高い柏崎から、越後線で新潟に向かって五つ目、西山駅が二田村(現在は刈羽郡西山町)の駅である。

私の村は、海岸線に沿った小高い山並みと、柏崎から長岡に続く山並みとの間にある小さな平和な村だった。私の家は、四、五百年前に開村した二田村坂田の十八戸の一軒として続いてきた古い農家である。

ゴルフ中の角栄
撮影=山本皓一
ゴルフ、浪曲、将棋と囲碁……多様なジャンルで玄人はだしの実力を持つ多才な人でもあった。

読み手を魅了する語り口

角栄の原稿は、決して美文ではない。だが余分な装飾が省かれ、エピソードをもって人生の機微を語らしめる手法が、読み手を魅了する。功なり名を遂げた人物の自伝にありがちな自画自賛の類もほとんど見受けられない。

私は小学校では級長をやっていた。からだがじょうぶでなく、気も弱かったが男の子たちは結構、私の言うことをきいた。ところが女の子(三年まで共学だった)の方がどうもうまくゆかない。

あるとき先生が「きょう先生は出張するから、あとは級長の君が適当に授業をやって、時間がきたら皆を帰すように」と言い置いて出かけられた。それを私はどうしたことか「君が授業をやりながら待っていなさい」という風に聞き違えてしまった。

先生は四時になっても五時になっても帰ってこない。とうとう皆を六時ごろまで残らせたことがある。サアみんなが怒った。「適当にやれないようなバカな級長は折檻せっかんしてやる」と言い出した。なかでも勇敢なる女の子がいてほうきを持って私を追い回した。私はとうとう泣かされてしまった。