国境線は択捉島と得撫島の間に
1792年にはロシア使節アダム・ラクスマンが、日本人漂流民の送還を口実に北海道根室に来航し、日本との通商を求めたラクスマン事件が発生。これが日本に対する欧米諸国の開国要求の最初の事件となった。江戸幕府は、長崎への入港許可証を与えたもののそのまま帰国。その後、ロシアは1804年に使節レザノフを長崎に派遣して開国を求めたが、幕府は応じなかった。
1811年には、択捉島周辺の測量を行っていたロシア海軍艦長のワーシリー・ゴローニンが国後島で日本側に拘束されるゴローニン事件も発生する。ロシア側も翌1812年にその報復として日本商船を拿捕し、豪商の高田屋嘉兵衛を人質に取るが、1813年に両者の釈放と人質交換が実現し、軍事衝突は回避された。
こうした緊張状態の中で、根室はロシアと向き合う日本の最前線としての役割を担うようになる。
その後、日本とロシアの国境は1855年の日露和親条約において千島列島の択捉島と得撫島との間に定められ、樺太については国境を定めず日露の雑居地とされた。
北方領土ではロシアが着々と軍備強化
明治時代に入ると、新政府は北方警備や千島開発の拠点として根室を重視し、一時は根室県の県庁所在地にもなり、根室は北海道東部最大の街となった。
日露雑居地とされた樺太では、日露両国人による紛争が絶えなかったことから、この解消を目的として1875年に樺太・千島交換条約を締約し、樺太がロシア領となる代わりにカムチャツカ半島の南に位置する千島列島の占守島までが日本領となった。
そして、1905年、日露戦争の勝利によるポーツマス条約で南樺太も日本領となった。しかしその後、ロシア革命によりロシア帝国は崩壊、1917年に1991年まで続くソビエト連邦(ソ連)が誕生した。
第二次世界大戦末期の1945年8月、ソ連軍は日ソ中立条約を破棄して参戦し、南樺太と千島列島を占領した。8月15日の終戦後もソ連軍は侵攻を続け、千島列島の北端にある占守島、さらに北方四島に上陸し占領した。
戦後80年以上が経過した現在も、北方領土問題は解決していない。国後島や択捉島にはロシア軍部隊が駐留し、近年は軍事施設の整備も進む。さらに根室市の納沙布岬からわずか3.7km先にロシアが実効支配する歯舞群島の貝殻島が存在するという現実は、江戸時代から続く日露の歴史が今なお終わっていないことを物語っている。


