次男と三男も大名として出世を果たす

それだけではありません。次男・秀勝も武将として秀吉に仕えています。一時秀吉と仲違いして冷遇されたこともありましたが、その後甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)などに所領を得たのち、美濃国(岐阜県南部)の岐阜城主となっています。また、信長の妹であるお市の三女・江と結ばれることになったのも秀吉の指示によるものと思われます。

さらに、三男・秀保は跡継ぎのいなかった秀長の養子となっています。そして、秀長の死後は100万石ともいわれるその所領と居城・大和郡山城を引き継ぎ、若くして「大和中納言」と呼ばれるようになりました。

3人の息子が驚くべき出世を果たしたことを、とももおおいに喜んだことでしょう。弟・秀吉に感謝することも多かったのではないでしょうか。しかしながら、その後、事態は徐々に変化していきます。

豊臣秀次
豊臣秀次(写真=seno/PD-Japan/Wikimedia Commons

不意に訪れた子や孫たちの死

文禄元(1592)年、朝鮮出兵が始まると、次男・秀勝は朝鮮半島に渡海して戦いに加わりました。しかし、異国の地での戦いは慣れないことばかりで心身に大きな負担を及ぼしてしまったようです。同年、秀勝は現地で病没してしまいました。

「秀吉が無謀な異国への進出など図らなければ……」

大切な息子を亡くしたともは、そんなふうに考えたかもしれません。

その3年後、今度は秀長の跡を継いだ三男・秀保が病死します。自然死とはいえ、まだ17歳の早すぎる死は、ともの心を悲しみで満たしたことでしょう。

それから3カ月も経たないうちに、さらなる悲しみがともに襲い掛かります。唯一残された長男・秀次が、謀反の疑いをかけられて失脚。高野山へ追われた挙句、自害を遂げたのです。

なにが原因で秀次が死に追いやられることになったのか、その理由は、実はよくわかっていません。秀次が横暴なふるまいをした、という噂もありますが、果たしてそうでしょうか?