妻子30人余りが三条河原で処刑され
その2年前、秀吉にはあきらめていた実子・秀頼が生まれています。このかわいい秀頼に権力の座を譲るには、既に後継者としての地位を固めつつあった秀次が邪魔になったのではないか、そのために秀次は死に至らしめられたのではないか、という説がかなり有力視されています。だとすると、弟・秀吉の個人的な都合のために、息子・秀次が殺されたことになるわけですから、ともの怒りは計り知れません。
悲劇はそれで終わりではありません。秀次の死の翌月、秀次の妻子が京の三条河原で処刑されたのです。その数は30人余りと伝えられています。
秀次の子、といえば、ともにとってはかわいい孫たちです。ともは、弟・秀吉によって、頼りの息子も、かわいい孫たちも、殺されてしまったことになります。
秀次の失脚から自害、妻子の処刑に至る間、実際どの程度、秀吉の意向が働いていたのか、については、実は諸説あります。秀次の自害に関しても、秀吉に強制されたのではなく、秀次自身の意志で行ったとする説も囁かれています。しかしながら、当時関白という重職にあった秀次を失脚させるに至っては、権力者・秀吉の意向が少なからずあったことは間違いないでしょう。
江戸中期まで続いた「ともの血脈」
悲しみに暮れたともは、これを機に出家します。たくさんの死を見つめてきた彼女はひょっとしたら、こんなことを考えていたかもしれません。
「こんな悲しい思いをするなら、尾張国中村の田舎で百姓をしていたほうがよかった」
と……。
その3年後、秀吉も病没。下の弟・秀長も、政略結婚で家康のもとに嫁いだ妹のあさひもすでにこの世を去っていたので、ともは4きょうだいで最も長生きしたことになります。
秀吉の死後、徳川家康が天下とりに動き出し、元和元(1615)年、秀吉の子(ともの甥)である秀頼が大坂の陣で自害し、豊臣家は滅亡します。その悲しき運命も見定めた後、寛永2(1625)年、94歳の長寿を全うし、ともはその生涯を閉じたのです。
ともの家系は、3人の子どもが相次いで死去した上に、孫までもが処刑されたため、滅亡したと思われがちですが、実はその血脈はつながっています。秀次の子のうち娘(隆清院)が真田信繁の側室となっており、その子(秀次の孫。とものひ孫)が出羽亀田藩主・岩城宣隆に嫁いでいます。この血統は江戸中期まで藩主の座を保っています。また、次男・秀勝の娘・完子は公家である九条幸家に嫁いでいます。この幸家はのちに公家のトップである関白に就任。その子・九条道房・二条康道もともに摂政になっています。
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