肺呼吸のまま海へ戻った「挑戦者たち」
「自立した個による社会」を構築している彼らの世界には、先ほどお話ししたように、確かな知性を感じさせる行動が随所に見られます。
そもそも、彼らの存在そのものが壮大な知性の物語であると感じるのは、その進化の足跡にあります。
クジラやイルカ、シャチの祖先は、数千万年かけてようやく陸に上がったにもかかわらず、なぜか再び海へと戻る道を選びました。
しかも、魚のようにエラ呼吸に戻るのではなく、水の中では不便なはずの「肺呼吸の哺乳類」のまま、海での暮らしに適応していったのです。
呼吸のために定期的に海面へ上がり、凄まじい水圧に耐え、泳ぎながら授乳し、体温を奪う海水の中で内臓を冷やさないよう複雑な血管網(ワンダーネット)を発達させる……。
この途方もなく困難な適応を、彼らはテクノロジーに頼ることなく、おそらく数えきれないほどの試行錯誤を乗り越えて、自らの「身体」1つで成し遂げてきました。
そのプロセス自体に、ある種の知性が宿っているように思えてなりません。
人間の尺度は「絶対」ではない
「人間は生物界の頂点にいる」という言葉を耳にすることもありますが、それは人間が作り上げた文明社会の中での限定的な見方かもしれません。
もし徒手空拳で海やジャングルに放り出されれば、私たちは一瞬でその無力さを痛感することでしょう。
私たちはクジラのように速く泳げませんし、家ネコより速く走ることも、鳥類のような視力を保つことも難しい。脳の機能がたまたま他の側面で発達したに過ぎない、という捉え方もできるはずです。
知性とは、たんに言葉を操ることや計算ができること、あるいは物事を概念化することだけを指すのではないように思います。
その環境において、自らの能力を最大限に引き出し、よりよく生き、命を繋いでいくための力の総体。もっと言えば、地球という環境を壊さずに存在し続けるための叡智こそが、本来の知性ではないでしょうか。
人間とは異なる進化を遂げ、三次元の広大な海に見事に適応した彼らの能力。それは1つの「壮大な知性」であり、それを敬う謙虚な視点を持つことで初めて、私たちは「ヒト」という種が持つ本来の知性の意味に光を当てることができるのではないかと感じています。
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