「銀行型」で受け身の日本人
家を訪ね、話を聞く。うまくいかなければ方法を変えて、また聞く。その積み重ねから活動そのものをつくっているのだという。
ところが日本ではアメリカで見たのとは逆向きの発想に何度も出会った。非常勤講師をしている大学院で、労働組合やNPOの実務家が集まる「ユニオン・イノベーション」という授業を受け持っている。そこで見えてきたのは、参加をサービスの問題として考えてしまうことだった。
組合員が集まらない、スタッフが受け身だという課題を多くの学生が抱えていて、その解決には帰属意識を高めることが重要だと考える。そのために、より多くのサービスを提供しようとする。しかし、これではいつまでも「与える側」「受け取る側」のままである。
ブラジルの教育者パウロ・フレイレは、知識を預金のように注ぎ込む教育を「銀行型」と呼んで批判した。組織とメンバーのあいだにも、同じことが起きている。
テネシー州のハイランダー・フォークスクールで公民権運動の担い手を育てたマイルズ・ホートンもまた、答えを教えるよりも問い続けた人である。異なる意見の声を聞くというアメリカの民主主義は、この長い系譜の上にある。
「市民の要求」がマムダニを生んだ
マムダニの話に戻ろう。彼の周りには、DSAがあり、労働組合があり、地域組織があり、借家人の組織があり、何年も玄関を叩いたオーガナイザーがいて、お互いの利害調整が継続している。
そこで話を聞かれた人たちは、聞かれることで初めて自分の思いに気づいていく。最初から同じ方向を向いていたわけではないし、今もってすべての人が同じ方向を向いているわけでもない。
翻って日本はどうだろうか。
どのようにしたいのかと誰かに聞いたり、聞かれたりという手間暇をかけているだろうか。自分はどうしたいのかと考えて、誰かに話すということをどれだけしているだろうか。
選挙になれば投票に行こうというメッセージをあちこちに見つけることができる。けれども、子供の塾代、親の介護、家のローンの支払い、漠然とした将来のこと、地域のこと、どんなささいなことでいいのだが、考えたり、誰かと話したりということがあるだろうか。マムダニが取り組んでいることはこれだ。

