捨てられた堅城と戦場に散った忠臣
以上のように玄蕃尾城を隅々まで巡ってみれば、「土の城の最高傑作」との異名に偽りないことを誰しも納得できるだろう。たとえ勝負の趨勢はすでに決していたとしても、織田家きっての猛将「鬼柴田」には、陣城で徹底抗戦してほしかった。
そして、最後は落城したとしても、これだけの堅城を落とすには相当の犠牲を強いられたはず。憎き秀吉に対し、一矢どころか二矢も三矢も報いることができたに違いない。
ただし実際には、勝家は戦線離脱し北へと逃げ帰る。そのための時間稼ぎとして、毛受茂左衛門と勝照(家照)の兄弟を影武者に。忠臣・毛受兄弟は勝家の馬印「金の御幣」を引き継ぎ、勝家の身代わりとなって戦場に散った。
その墓は、両軍のにらみ合っていた文字通りの「最前線」の地にある。
撤退の判断にはやはり北庄城で待つ、勝家へ嫁してきたばかりのお市の方の影響があったのだろうか。勝家としては「なんとしてでも亡き主君の妹であるお市だけは死守しなければならない」という想いがあったのかもしれない。




