※本稿は、佐藤優『戦略の罠』(フォレスト出版)の一部を再編集したものです。
教養とは「代理経験」を蓄積すること
未知の問題に直面した時、人間は何を手がかりに判断するのか。多くの場合、われわれは無意識のうちに過去の経験を参照している。まったく同じ事例ではなくても、似た構造を持つ出来事を思い出し、そこから対応策を引き出そうとするのである。
私自身、2002年5月に鈴木宗男事件に連座して東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された時、直接役に立ったのは法律知識だけではなかった。ソ連崩壊前後の政争に巻き込まれたロシアやリトアニアの政治家たちが、取り調べや権力闘争の中でどのように振る舞ったか。その記憶をたどりながら、自分の身の処し方を考えた。
しかし、人間が直接経験できることには限界がある。だからこそ読書が重要になる。
読書とは、他人の経験を自分の中に取り込む営みである。単なる知識ではない。読書によって得た知識が、自分の判断や行動に使えるところまで身体化された時、それは教養になる。
教養とは、物知りであることではない。Wikipediaの情報を大量に暗記していても、それは博識にすぎない。中世神学には、「総合知に対立する博識」という格言がある。断片的な知識をいくら積み重ねても、そこに全体をつなぐ物語がなければ、教養にはならない。
MBAで深い教養が身につくわけではない
教養とは、知識を耕すことである。ドイツ語のビルドゥング(Bildung)やクルトゥール(Kultur)に近い概念だ。クルトゥールは英語のカルチャーにあたり、もともとはラテン語のコレーレ、すなわち「耕す」に由来する。教養とは、知を耕し、自分の生活や仕事の中で使える形に育てることなのである。
この点で、新自由主義的な発想は教養と相性が悪い。新自由主義は、規制を緩和し、競争原理に任せればすべてうまくいくと考える。しかし、そこでは人間は市場の中の孤立した原子(アトム)として扱われる。共同体や歴史、宗教、文化といった厚みは切り捨てられる。
MBA型の知識も同じである。MBAは一種の運転免許のような資格であり、経営実務の一定の技法を学ぶには役立つ。しかし、それによって深い教養が身につくわけではない。むしろ、現代の複雑な問題を理解するためには、マルクスやウェーバー、神学、歴史、哲学といった古典的知を読み込んだ方がよい。
なぜなら、現実の問題は単純なフレームワークでは処理できないからである。ウクライナ戦争、ガザ紛争、イラン核関連施設攻撃、米中対立、新・帝国主義……。これらを読み解くには、数字や制度だけでは足りない。世界を動かしている思想の深層を理解する必要がある。

